人間には、やってはならないことがあるようだ。
極端に言えば、殺人、泥棒、強制猥褻、嘘の証言で誰かを陥れること・・・等で、これらは、モーセの十戒に一致する。
ところが、世界を見れば、これらのことを、まるで「わが使命」とでも言わんばかりに大挙してやっている者が沢山いるし、国家の支配者達が堂々やっているし、そして、多少遠慮がちかもしれないが、我々の身の周りの多くの人達、さらには、自分がやっている。
それどころか、「どうして人殺しがいけないの?」という議論まで起こる始末だ。

どうしてこういうことになったのかと言うと、理由は一つで、物質的なものにしか価値を置かなくなったからだ。
物質的なものだけが価値があるなら、別に殺人も盗みも痴漢も、それらをやってはいけないという理由はない。
単に、法で罰せられるからやらないというだけのことになる。
よって、罰せられないようにやれば良いということになる。
物質的なものにしか価値を置かないなら、それで矛盾がなく、論理的ですらある。
金融の操作で大儲けして何が悪いのかということにもなる。
物質的なものにしか価値を置かない人間には、それのどこが悪いのかさっぱり分からないのである。

悪い理由が納得できないなら、やっても良いという考え方が人々の間に定着している。
だから、殺人の何が悪いのかを説明しようとする人がいたりする。
それはとても滑稽なことだ。
殺人や盗み、あるいは、強制猥褻がいけないという理屈は別にないのである。
なぜ、これらを法で罰するのかを説明することはできないのだ。
だから、本当はやっても良いというのが、物質的な価値感に囚われた者には当然の結論になる。

中島敦の『名人伝』で読んだが、古代の中国では、自分の息子を塩焼きにして主君に食べさせるというのは、悪いことではなく、忠義の証拠として賞賛されたというようなことが書かれていた。
そういったことが、当時の人々には疑ってもいない常識だというような書かれ方であった。
それなら、殺人や強盗が悪いというのも単なる価値感の問題ということになる。
内海康満さんの本で読んだが、「貧しい国では、泥棒は悪いことではない。盗まないと生きていけない」といったことが書かれていた。
(ただし、内海さんは、そんな価値感を認めるという意味で書いていた訳ではない)
だが、私はこれらの価値感に同意しないのである。
いや、どのような価値感にも完全には同意せず、二次的なもの(本質的でない)と見なしている。

私は、殺人も盗みも、絶対にしないとは言い切れないが、したくないと思っている。
それは理屈ではない。
私は、そういったことを、してはならないことを知っているだけなのである。
それは、教えられたことでも、何かを読んで覚えたことでも、個人的趣味でも価値感でもない。
私がそのように出来ているというだけのことだ。
私がそう言ったら、理屈でしかものを考えられないが自分を賢いと思っている人には、、「いや、それはお前が知らないだけで、教育された価値感なのだ」と言われるかもしれない。
だが、私が家庭や学校、社会で教育された価値感でいえば、それらはやってはならないことにはならないのである。
別に、教育されたことに反発して、その反対をやっているのではない。
たまたま、そう見えるだけのことだ。

神というのは曖昧な概念かもしれない。
しかし、万物を・・・物質だけでなく、法則やエネルギー全てを創造し、創造しつつあり、支配する至高の存在が、もしあるなら、それを神としよう。
私はその至高者である。
エマーソンは、自分は世界の所有者で、七つの星と太陽年(つまりは、最も価値の高いもの)の所有者であると言ったが、同じ意味である。
これには、どんな理屈もないし、どんな説明もできない。
ただ、知っているだけだ。
しかし、別に個人としての私が、それを信じているのではない。
むしろ、全く信じていない。
だが、覚えていて、忘れないのである。
物質的な価値感、理屈で言えば、全く馬鹿げたことである。
それは、個人の私としては、全く同感である。
だが、私は、私が至高者であることを覚えているのである。
こんなことを言うと、「わけ分かんないよ」と言われだろう。
私個人もそうである。
だが、私は私の意志として、そのことを覚えているのである。









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