今、スターバックスのCEOであったハワード・シュルツの自伝を読んでいるが、大物ビジネスマンの自伝というものは、やはり面白い。
ところで、私は昔、桁違いの大物ビジネスマン2人の自伝を読んだことがある。
一人は、オクシデンタル石油のCEOであったアーマンド・ハマーの『ドクター・ハマー』で、もう一人が、クライスラー会長だったリー・アイアコッカの自伝『アイアコッカ』だ。
他のビジネスマンの自伝も読んでいるかもしれないが、これらは、著者の格も面白さも桁違いだった。
ビジネスマンではないが、プロレス史上最高のレスラーと言えるルー・テーズの自伝も面白かったが、これは、スポーツマンの自伝というだけでなく、ビジネスマンの自伝という面もある。プロスポーツでは、選手自身がビジネスマンである必要があるのだと思う。その自覚がないから、現役時代は大物でも、引退してからの人生は悲惨なものになることが多いのだろう。
ところで、私が、これらの自伝から、いったい何を学んだかを一言ずつで言うとこうなる。
アーマンド・ハマーには、「1つのビジネスを次につなげるのがビジネスのコツだ」で、アイアコッカは、「勤勉だけが成功の道」だ。
ルー・テーズには、「リスペクト(敬意をもつこと)」の大切さだ。
ハワード・シュルツに関しては、読んでいる途中なので、はっきりとは分からない。こういったことは、読んでかなり経ってから分かるのだ。
それでもあえて言えば、シュルツから学べることは「情熱を感じるならやれ」だ。
ところで、平凡ながら奥が深いのが、ハマーの「1つのビジネスを次につなげる」というものだ。
彼は1990年に92歳で亡くなっているが、もちろん、彼の時代には、ブログなんてものはなかった(最晩年にインターネットはあったが黎明期だったと思う)。
ところで、今は、Twitterの流行でさらにそうなったと思うが、ロクに考えずにものを言う者が多くなった。
それは良い面も無くは無いのだが、やはり軽薄になることの方が多いだろう。
そのせいで、もしハマーがブログで「ビジネスのコツは、1つのビジネスを次につなげることだよ」と書いたりしたら、「1つのビジネスを次につなげるにはどうすればいいのですか?」とコメントする者が必ずいるし、それも、沢山いるかもしれない。
これは、学校の弊害もある。
学校というのは、教師が答えを持っている場所で、聞けば教えてもらえるという場所だ。
逆に言えば、教師が持っている答だけが正解であると思い込まされる場所なのだ。
それで、子供達は、答は誰かが持っているという、おかしな考え方をするようになったのだと思う。
テレビで、大物と若者達が質疑応答する番組や、会社でも、社長と若手社員の質疑応答の場所を設けたりしたら、本当に下らない質問ばかり出てくる。いや、社長と若手どころか、社長とベテランや幹部のものでも、概ね同じかもしれない。
下らない質問とは、「そんなことは聞くべきでない。自分で考えろ」というものだ。
しかし、そんなテレビ番組でも、会社でも、若者(あるいは全ての平凡な人間)のそんな質問は歓迎される。
なぜかというと、そんな質問をする人間は洗脳しやすいからだ。
なんといっても、自分で考えるべきことを考えようとしない人間だからだ。
では、1つのビジネスを次につなげるにはどうすれば良いのだろう?
別に答がある訳ではない。
ただ、自分で、1つのビジネスを次のビジネスにつなげれば良いのだ。
だが、平凡な人間は、こんな答が嫌いなのだ。
自分で考えたくないからだ。
だが、あえて答えるなら、そのビジネスで、まず、顧客に誠意を尽くすことだ。
そして、協力者に誠意を尽くし(儲けさせてやる等)、後始末まできちんとして、関係者に誠意を尽くすことだ。
だが、ここまで書くと、それこそ、「顧客に誠意を尽くすとはどういうことですか?」と聞かれかねない。
そんな人間は、親や学校に頭脳を破壊されていると言っても良いかもしれず、救いようがない。
だが、人間の心というのは、壊れてしまっても、治らないとは限らない。
ネットが使われだしてから、「死ね」という言葉を使う者が多くなった。
こんな言葉を使うのは、本当に、全くものを考えることができない者だけなのである。
『僕は友達が少ない』という小説は面白いだけでなく、良い作品なのだが、登場人物達が、簡単に「死ね」という言葉を使うところは、「残念」がテーマの1つにもなっているこの作品の最も「残念」なところだ。
以前はよくテレビに出ていた有名占い師が、「あなた死ぬわよ」とよく言うのも、脅しで言っているのであるから、「死ね」と似たような意味で、それは、あの人は、大切なことは何も考えない人だということなのだ。
まともなことを少しでも考える人なら、決して「死ね」なんて言葉は使えないはずである。
アインシュタインは子供の時、行進する兵隊達を見て、「神様が間違えて彼らに頭をくっつけたんだ」と思ったらしい。
兵隊達だって、好きでやっている者ばかりではないということも考えてあげないといけないが、「死ね」と言う者は、確かに、神様が間違えて頭をくっつけたような人間だろう。
誰かに聞けば答が得られるという考え方をしないことだ。
そして、考えてものを言うことだ。
それには、言葉を大切にすることである。
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ところで、私は昔、桁違いの大物ビジネスマン2人の自伝を読んだことがある。
一人は、オクシデンタル石油のCEOであったアーマンド・ハマーの『ドクター・ハマー』で、もう一人が、クライスラー会長だったリー・アイアコッカの自伝『アイアコッカ』だ。
他のビジネスマンの自伝も読んでいるかもしれないが、これらは、著者の格も面白さも桁違いだった。
ビジネスマンではないが、プロレス史上最高のレスラーと言えるルー・テーズの自伝も面白かったが、これは、スポーツマンの自伝というだけでなく、ビジネスマンの自伝という面もある。プロスポーツでは、選手自身がビジネスマンである必要があるのだと思う。その自覚がないから、現役時代は大物でも、引退してからの人生は悲惨なものになることが多いのだろう。
ところで、私が、これらの自伝から、いったい何を学んだかを一言ずつで言うとこうなる。
アーマンド・ハマーには、「1つのビジネスを次につなげるのがビジネスのコツだ」で、アイアコッカは、「勤勉だけが成功の道」だ。
ルー・テーズには、「リスペクト(敬意をもつこと)」の大切さだ。
ハワード・シュルツに関しては、読んでいる途中なので、はっきりとは分からない。こういったことは、読んでかなり経ってから分かるのだ。
それでもあえて言えば、シュルツから学べることは「情熱を感じるならやれ」だ。
ところで、平凡ながら奥が深いのが、ハマーの「1つのビジネスを次につなげる」というものだ。
彼は1990年に92歳で亡くなっているが、もちろん、彼の時代には、ブログなんてものはなかった(最晩年にインターネットはあったが黎明期だったと思う)。
ところで、今は、Twitterの流行でさらにそうなったと思うが、ロクに考えずにものを言う者が多くなった。
それは良い面も無くは無いのだが、やはり軽薄になることの方が多いだろう。
そのせいで、もしハマーがブログで「ビジネスのコツは、1つのビジネスを次につなげることだよ」と書いたりしたら、「1つのビジネスを次につなげるにはどうすればいいのですか?」とコメントする者が必ずいるし、それも、沢山いるかもしれない。
これは、学校の弊害もある。
学校というのは、教師が答えを持っている場所で、聞けば教えてもらえるという場所だ。
逆に言えば、教師が持っている答だけが正解であると思い込まされる場所なのだ。
それで、子供達は、答は誰かが持っているという、おかしな考え方をするようになったのだと思う。
テレビで、大物と若者達が質疑応答する番組や、会社でも、社長と若手社員の質疑応答の場所を設けたりしたら、本当に下らない質問ばかり出てくる。いや、社長と若手どころか、社長とベテランや幹部のものでも、概ね同じかもしれない。
下らない質問とは、「そんなことは聞くべきでない。自分で考えろ」というものだ。
しかし、そんなテレビ番組でも、会社でも、若者(あるいは全ての平凡な人間)のそんな質問は歓迎される。
なぜかというと、そんな質問をする人間は洗脳しやすいからだ。
なんといっても、自分で考えるべきことを考えようとしない人間だからだ。
では、1つのビジネスを次につなげるにはどうすれば良いのだろう?
別に答がある訳ではない。
ただ、自分で、1つのビジネスを次のビジネスにつなげれば良いのだ。
だが、平凡な人間は、こんな答が嫌いなのだ。
自分で考えたくないからだ。
だが、あえて答えるなら、そのビジネスで、まず、顧客に誠意を尽くすことだ。
そして、協力者に誠意を尽くし(儲けさせてやる等)、後始末まできちんとして、関係者に誠意を尽くすことだ。
だが、ここまで書くと、それこそ、「顧客に誠意を尽くすとはどういうことですか?」と聞かれかねない。
そんな人間は、親や学校に頭脳を破壊されていると言っても良いかもしれず、救いようがない。
だが、人間の心というのは、壊れてしまっても、治らないとは限らない。
ネットが使われだしてから、「死ね」という言葉を使う者が多くなった。
こんな言葉を使うのは、本当に、全くものを考えることができない者だけなのである。
『僕は友達が少ない』という小説は面白いだけでなく、良い作品なのだが、登場人物達が、簡単に「死ね」という言葉を使うところは、「残念」がテーマの1つにもなっているこの作品の最も「残念」なところだ。
以前はよくテレビに出ていた有名占い師が、「あなた死ぬわよ」とよく言うのも、脅しで言っているのであるから、「死ね」と似たような意味で、それは、あの人は、大切なことは何も考えない人だということなのだ。
まともなことを少しでも考える人なら、決して「死ね」なんて言葉は使えないはずである。
アインシュタインは子供の時、行進する兵隊達を見て、「神様が間違えて彼らに頭をくっつけたんだ」と思ったらしい。
兵隊達だって、好きでやっている者ばかりではないということも考えてあげないといけないが、「死ね」と言う者は、確かに、神様が間違えて頭をくっつけたような人間だろう。
誰かに聞けば答が得られるという考え方をしないことだ。
そして、考えてものを言うことだ。
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「死ね」「死んでる」等をその出来事外で耳にするのは、強い違和感を感じます。
以前の職場で「この口座は死んでる」などと言う人がいて、「無効とか休眠とか言い方はあるのに…」と、訂正したい衝動がムクムク湧いたことがあります。
言霊ってあると思います。