今回のお話は、一応は、フェアリーテール(お伽噺)のようなものと思っていただきたい。

人間は生まれか、育ちかというと、生まれだ。
「そんなはずはない」と言いたい人がいるかもしれない。
しかし、厳然として、人間は生まれで決まっている。
ただ、その生まれの区分を、大概の人達は思い違いしている。
人間は、1パーセントの優等種とその他に分かれるのだ。
こう言えば、かなり納得できるのではないだろうか?
そんな1パーセントの優れた人に会った時に、私はいつも思ったものだ。
「ああ、自分とは全然違う」
もし、そんな優等人種ばかりの集団があったとして、間違ってそこに紛れ込んでしまったら大変だ。
優等人種達は、あまり我々を蔑むことはなく、対等に扱ってくれるし、親切なことが多いのだが、こちらが彼らに全くついていけないので、ひどく場違いであることを感じるのだ。
見下したり、軽蔑したりは、お互いさして変わらない劣等人種同士で行うことなのだ。

そして、もう数百年も、劣等人種全体の質が、どんどん低下しているのだ。
それで、優等人種達は、劣等人種への締め付けをかなり強めている。
でなければ、優等人種達だって、無事では済まないからだ。

我々は、次の生で、優等人種に生まれることに望みをつなぐしかないが、そのためには、劣等人種特有の行為をやめなければならない。
その中でも、特に注意しなければならないことが、上でも述べた、他人を見下し、蔑むことだ。
劣等人種同士で、ほとんど差がないのに、自分の方が優っていると思ってしまうのが、劣等人種の愚かさなのである。
また、大食い、大酒、性的な放蕩(ふけること)も、劣等人種の特徴で、そのままだと、次の生も確実に劣等人種だ。
では、どうすれば、次の生で優等人種になれるのかというと、優等人種に生まれたいと願うことが一番強い要因になる。
ただ、本質的な魂そのものは、優等人種も劣等人種も変わらず、命の重さに違いがある訳ではない。
しかし、劣等人種は、何か悪いものに覆われているか、汚れているかの違いなのだと思う。
稀に、劣等人種が、優等人種に転換することがある。
それを悟りというのであって、優等人種が悟りを開くということはない。
だが、いずれにしても、悟りは極めて珍しい現象だ。
ところで、悟りを開いた人に、どうやったのかを聞くと、大抵同じことを言う。
優れた人に憧れ、本質においては自分も同等なのだということを忘れなかったのだ。
今の時代では、我々は、劣等人種として落ちていくだけか、悟りを開くしかないように思う。
次の世で優等人種の仲間入りを願うことだ。
そうであれば、遅くとも、次の生で優等人種になれる可能性があるし、今生での転換も、ほとんど可能性はないながら、絶対にないとも言い切れない。









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