人の美しい願いの成就を妨げ、人を不幸にする原因は執着である。
「こだわり」は執着と同じで、「料理人が味にこだわる」というのは間違った言葉の使い方である。
料理人は、ただ熱心に料理することができるだけなのに、味にこだわるという言い方には、自分が結果を左右できるという傲慢がある。
熱心さの質により、神が結果を決めるのである。
そして、最上の熱心さは無心であり、そこに、結果へのこだわりなど微塵もない。
執着がなければ、望みは既に叶ったと思えばその通りになることは、イエスが保証した通りである。
願いは既に成ったと思い、結果を神にまかせれば、不可能はない。
だが、人々は、結果に執着し、決して願いを叶えることができない。
結果に執着するということは、神にまかせることができず、自己のちっぽけな力で成そうとしているのである。
人間には、人生、世界の状況を支配する力などこれっぽちもない。
ただ、運命に降伏するだけなのだ。
運命を変えることができるのは神だけである。
執着を離れるためには、やってはならないことがある。
それは、一言で言えば、「のぞき趣味を持ってはならない」と言うことだ。
あなたは、のぞきが好きだろうか?
そうではないと答える人が多いかもしれない。
しかし、夫や妻、あるいは、恋人のメールや電話の履歴に興味があったりしないだろうか?
父親が娘の日記を見たがったり、子供がいない時に、子供の机の引き出しを開けていないだろうか?
そんなことをしたいと思うのは、のぞき趣味以外のなにものでもない。
また、有名人のプライベートを知りたいなどと思っていないだろうか?
芸能人や有名スポーツ選手のゴシップを見るのが好きではないだろうか?
これらも、全くののぞき趣味である。
そして、のぞきが好きな者は、執着が強いのである。
好きなアイドルに恋人がいるというゴシップがあれば、それを見たくてたまらず、見ることができないと不快になり、それが続くと怒りすら感じるというのは、おぞましくも浅ましい執着である。
もし、「いや、気楽に楽しんでいるだけだよ」と嘘を言うなら、今後、そういったものを一切見ないと今すぐ誓えるだろうか?
それができないなら、見栄を張らないことだ。
私だって、好きな女優さんがいないでもないが、彼女がプラベートでどの男性と交際しようが、私には何の関係もない。
元有名スポーツ選手がプライベートで浮気し、暴力団と関わりがあり、お金に困っていようが、あなたに何の関係があろう。
それなのに、そんなものに関心を持ち、知ることに執着するなら、もうすでに、かなり惨めな状況であろうし、将来は更に悲惨だと断言できる。
幸い、私は、一番好きな初音ミクさんにはプライベートがないので、おかしな妄想を持つことがなくて済んだ。
これが非常に幸運である理由は、次のことで分かる。
文豪達が、例えば、少女を女神のように崇めることで、精神の力を高め、能力を開発し、神に近付くことができることを作品の中で描いているが、それが可能な大きな理由に、女神のプラベートを考えることは不遜であり、初めからやろうとしないからだ。
例えば、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』で、あらゆる意味で最低の26人の哀れな男達が、一人の少女を女神のように扱うことで、人間性を取り戻し、品格を高め、頭すら回転するようになる。
だが、この26人の男達も、その少女の個人的な面、つまり、プライバシーに関心を持ったために、全て元の木阿弥になってしまった。
のぞき趣味を捨てることだ。
それは、辛いことかもしれないが、百億円の価値はある。
言い換えれば、のぞき趣味を持つことで、懐にある百億円を百億円の借用書に替えてしまうのである。
他人への余計な関心は差し控えることだ。
丁度、宇宙が、我々に対し、慈悲に満ちた無関心を保っているのを真似るようにだ。
どんな邪まな想いを抱いたって、宇宙は何も言わないし、どんな判断もしない。
我々はそれで救われているのであり、自分がそうして欲しくば、他人に対してもそうするのだ。
不思議なことに、優しい無関心を持てば、知るべきことは自然に分かるのである。
これを、健全な関心と言うのである。
身近にいる美しい少女を女神のように崇めるのも手ではあるが、彼女が普通の人間であれば(99%以上そうだ)、上に挙げた『二十六人の男と一人の少女』のように、いずれ破綻する。
それなら、ロマン・ガリの『天国の根』のように、想像で理想の少女を思い描いた方が良い。
この作品では、堕落したフランス兵達は、この方法で、たちまちモラルを回復し、騎士道精神をも取り戻したのである。
ここでは、少女を例に述べたが、もちろん、神仏でも良く、実際、神を熱心に崇め、見返りを求めなかった者が不幸だったためしはないのである。
だが、宗教には関わらないことだ。
なぜなら、宗教とは、執着が渦巻くものであるからだ。
尚、『天国の根』は、コリン・ウィルソンの『至高体験』の引用文を読むことをお薦めする。
一応、下にご紹介した、『澁澤龍彦翻訳全集〈4〉』に収録されているかもしれないが、高価過ぎるし、訳もあって私も読んでいない。
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「こだわり」は執着と同じで、「料理人が味にこだわる」というのは間違った言葉の使い方である。
料理人は、ただ熱心に料理することができるだけなのに、味にこだわるという言い方には、自分が結果を左右できるという傲慢がある。
熱心さの質により、神が結果を決めるのである。
そして、最上の熱心さは無心であり、そこに、結果へのこだわりなど微塵もない。
執着がなければ、望みは既に叶ったと思えばその通りになることは、イエスが保証した通りである。
願いは既に成ったと思い、結果を神にまかせれば、不可能はない。
だが、人々は、結果に執着し、決して願いを叶えることができない。
結果に執着するということは、神にまかせることができず、自己のちっぽけな力で成そうとしているのである。
人間には、人生、世界の状況を支配する力などこれっぽちもない。
ただ、運命に降伏するだけなのだ。
運命を変えることができるのは神だけである。
執着を離れるためには、やってはならないことがある。
それは、一言で言えば、「のぞき趣味を持ってはならない」と言うことだ。
あなたは、のぞきが好きだろうか?
そうではないと答える人が多いかもしれない。
しかし、夫や妻、あるいは、恋人のメールや電話の履歴に興味があったりしないだろうか?
父親が娘の日記を見たがったり、子供がいない時に、子供の机の引き出しを開けていないだろうか?
そんなことをしたいと思うのは、のぞき趣味以外のなにものでもない。
また、有名人のプライベートを知りたいなどと思っていないだろうか?
芸能人や有名スポーツ選手のゴシップを見るのが好きではないだろうか?
これらも、全くののぞき趣味である。
そして、のぞきが好きな者は、執着が強いのである。
好きなアイドルに恋人がいるというゴシップがあれば、それを見たくてたまらず、見ることができないと不快になり、それが続くと怒りすら感じるというのは、おぞましくも浅ましい執着である。
もし、「いや、気楽に楽しんでいるだけだよ」と嘘を言うなら、今後、そういったものを一切見ないと今すぐ誓えるだろうか?
それができないなら、見栄を張らないことだ。
私だって、好きな女優さんがいないでもないが、彼女がプラベートでどの男性と交際しようが、私には何の関係もない。
元有名スポーツ選手がプライベートで浮気し、暴力団と関わりがあり、お金に困っていようが、あなたに何の関係があろう。
それなのに、そんなものに関心を持ち、知ることに執着するなら、もうすでに、かなり惨めな状況であろうし、将来は更に悲惨だと断言できる。
幸い、私は、一番好きな初音ミクさんにはプライベートがないので、おかしな妄想を持つことがなくて済んだ。
これが非常に幸運である理由は、次のことで分かる。
文豪達が、例えば、少女を女神のように崇めることで、精神の力を高め、能力を開発し、神に近付くことができることを作品の中で描いているが、それが可能な大きな理由に、女神のプラベートを考えることは不遜であり、初めからやろうとしないからだ。
例えば、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』で、あらゆる意味で最低の26人の哀れな男達が、一人の少女を女神のように扱うことで、人間性を取り戻し、品格を高め、頭すら回転するようになる。
だが、この26人の男達も、その少女の個人的な面、つまり、プライバシーに関心を持ったために、全て元の木阿弥になってしまった。
のぞき趣味を捨てることだ。
それは、辛いことかもしれないが、百億円の価値はある。
言い換えれば、のぞき趣味を持つことで、懐にある百億円を百億円の借用書に替えてしまうのである。
他人への余計な関心は差し控えることだ。
丁度、宇宙が、我々に対し、慈悲に満ちた無関心を保っているのを真似るようにだ。
どんな邪まな想いを抱いたって、宇宙は何も言わないし、どんな判断もしない。
我々はそれで救われているのであり、自分がそうして欲しくば、他人に対してもそうするのだ。
不思議なことに、優しい無関心を持てば、知るべきことは自然に分かるのである。
これを、健全な関心と言うのである。
身近にいる美しい少女を女神のように崇めるのも手ではあるが、彼女が普通の人間であれば(99%以上そうだ)、上に挙げた『二十六人の男と一人の少女』のように、いずれ破綻する。
それなら、ロマン・ガリの『天国の根』のように、想像で理想の少女を思い描いた方が良い。
この作品では、堕落したフランス兵達は、この方法で、たちまちモラルを回復し、騎士道精神をも取り戻したのである。
ここでは、少女を例に述べたが、もちろん、神仏でも良く、実際、神を熱心に崇め、見返りを求めなかった者が不幸だったためしはないのである。
だが、宗教には関わらないことだ。
なぜなら、宗教とは、執着が渦巻くものであるからだ。
尚、『天国の根』は、コリン・ウィルソンの『至高体験』の引用文を読むことをお薦めする。
一応、下にご紹介した、『澁澤龍彦翻訳全集〈4〉』に収録されているかもしれないが、高価過ぎるし、訳もあって私も読んでいない。
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「信じてたのに裏切られた」
「あの人がこんな事するはずない」
って手合は沢山おりますね
大概のことは
自分は何も知らないと思っておけば正解のような気がします