久し振りに、食事のことを書こう。
私の食の掟はただ1つだ。
それは、
「満腹するまで食べて自分を甘やかさない」
である。
他には、一切、何もない。
私は一頃(数年に及ぶが)、極端な少食をしていた。
朝、昼は食べず、夜も、ご飯半分に豆腐と漬物だけ。その豆腐も、「一丁は多いから半丁で」とか、なんともみみっちいものだった。
だが、一度、美食、大食の習慣がついてしまった者が、それを打ち壊すには、そういったことも必要なのかもしれない。
おぞましきは、現代の美食、飽食である。

ラマナ・マハルシだって、ヒマラヤの大師達だって、ちゃんと十分な食事をしていたし、「運命は食の多少のみで決まる」と言い、「食少なければ幸運、多ければ不運」と説いた水野南北だって、1日3食きちんと食べ、酒も一日一合(180ml)に限定していたとはいえ、「十分に楽しんでいる」と述べているのである。

極端な少食というのは、それほど難しいことではない。
適切に食べる方が、よほど難しい。
また、「コンビニの食品は身体に悪いから食べてはいけない」とか言う者もいるが、私はコンビニでしか食べ物を買わないが、完全に健康である。
人間の身体ってのは、毒でも食べない限り、いや、少しなら毒でも、食事の量が適切であるなら、うまく処理できるのである。
炭水化物(糖質)を一切食べてはならぬと言う高名な医学者がやたら多いが、これも単に量の問題である。そんなことを訴える医者達は、皆、お金持ちの美食家で、確かに、彼らには炭水化物の制限は必要かもしれず、別に嘘を言っている訳ではないだろうが、私には関係ないことが分かった。

食においても、重要なのは、こだわりがないことである。
私の唯一の食の掟は「満腹するまで食べて自分を甘やかさない」ことであると述べたが、楽しい会食の時は別で、大いに食べる。
だが、自ずから限度もあり、吐くまで食べるなら愚かであるし、酒も、ビールやチューハイ一杯、せいぜい二杯なら良いが、「もう一杯、もう一杯」といつまでも薦め、自分も飲む者も、後で述べるが問題がある。

食にこだわりがある者は気の毒である。
そんな者は不運につきまとわれるからだ。
「この店が美味しい」というこだわりを持っていたり、やたら美味しいものに詳しい人は、食への執着が強く、そんな者達は、おしなべて不運体質だ。
私なら、コンビニのおにぎりだって、美味し過ぎるほど美味しいのである。
ある人が会社の近くのラーメン店について、その不味いことをドヤ顔(得意顔)で貶していたが、私には、その店のラーメンは非常に美味しいとしか思えないのである。
その人もまた、食へのこだわり、執着が強く、優れたところもある人だったが、ひどく不運だった。

酒を飲み過ぎる者も駄目である。
そんな人を豪傑のように言う風潮もあるかもしれないが、そんな者は本当はとても弱い人である。
酒が過ぎるというのもまた、酒へのこだわり、執着が強いのである。
この世のあらゆることで、運と不運を分けるのは執着、こだわりだ。
酒が過ぎる者も、なんとも可哀想なのだ。
しかし、いったんついたその習慣からは、なかなか抜け出せないであろう。
どこかの芸能人のように、酒で問題を起こして断酒するというのは(ややこれ見よがしであったが)、良い方法でない。
彼はその後、また大酒飲みに復帰し、今は幸いばれないだけで、やっぱり問題を起こしているのである。
大切なことは、適切に飲むことだけであり、酒が好きな人が断酒か大酒かに偏るのは間違いである。

アメリカ最大の賢者エマーソンが「人類の偉大な5人」の一人に選び、ゲーテ、カント、ヘレン・ケラーをも敬服させていたエマニュエル・スウェーデンボルグは、天使に教えられたことを明かしているが、「満腹するまで食べて自分を甘やかさない」ことを常に忘れないようにしていた。
「食が少なければ幸福。これ以外に何もない。万に1つの外れもない」
と断言した水野南北も、つまるとこと、苦行僧のような食の仕方をしろと言ったのではなく(苦行僧はみんなツイてない)、食を慎め・・・即ち、満腹するまで食べるなと言ったに過ぎないと思う。
しかし、腹八分目か腹六分目かは言葉のあや(微妙なニュアンス)に過ぎず、どちらでも良いが、そのように、食欲が残る程度に食べることは、いったん、飽食に慣れてしまうと難しいことだと思う。
病気をきっかけに、飽食、美食の食習慣を改めることができたなら、むしろ幸運だと思う。

インドの聖者ラマナ・マハルシに、人間にとって大切なことはと尋ねると、
「適度な食事、適度な睡眠、適度な会話。その中でも、適切なものを適切な量食べるのが最上である」
と言ったようである。
ヒマラヤの偉大なマスター(大師)達も、美味しい食事を楽しんでいるらしいし、中には、肉食をする聖者もいる(肉しか入手できない場所だってある)。
イエスも、「何を食べ、何を着るかに悩むべきでない」と言い、どんな食べ物も良いのだと教えた。

食への執着を脱すると、他のことでも執着を逃れることは易しい。
そうなれば、人生、勝ったも同じである。
まさに、水野南北が絶対的自信を持って言ったように、「人の運命は、ただ食の多少で決まる。万に一つの外れもなし」である。
この「食の多少」の「少」は、極端なものではなく、適切な量という意味で、「過ぎない」ということである。
これこそが、人間の持てる最大の能力、そして、徳である。
調和、バランスとも言う。
これほど美しいものはない。

以上、参考になればと思う。









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