劣等感のない人間はいない。
昔の日本ではどうだったかは知らないが、現代人の劣等感は深刻だ。
おそらく、昔は今ほどではなかったように思うが、今はかなりひどい。
だが、自分では劣等感をあまり自覚していない場合が多い。
また、ほとんどの人は、意識的にも無意識的にも劣等感を隠そうとする。

劣等感の証拠とは何だろう?
威張るのは、間違いなく、強い劣等感の裏返しだ。
自慢もそうだ。
宮本武蔵は、晩年、仕官がかなって、いわばサラリーマンになれたのだが、自慢ばかりして嫌われていたらしい。
武蔵だって、劣等感のかたまりだったのだ。
武蔵を美化する映画やドラマが多いし、武蔵自体は偉大なところもあったのだが、彼の実態はそうなのだ。
他人の陰口、悪口も深刻な劣等感を表している。
本人のいない場所で、その人をこき下ろし、貶めるのも、強い劣等感のためだ。
大きな音を立てて周囲の気を引こうとするのも、悲しい劣等感による惨めな行為だ。
また、昨今流行のパワハラなどは、深い深い劣等感に突き動かされてやることなのだ。
パワハラを法律やなんかで抑えつけるだけだったら、次はもっと醜悪で悲惨なことが起こるだろう。

お分かりと思うが、劣等感自体はあって良いし、あるのが普通かもしれない。
しかし、現代人の劣等感は強過ぎる。
そして、劣等感も度が過ぎると、自慢や悪口といった外に向かうものではなく、自分に向かう。
自分を卑下するようなことばかり言い、見ているだけで疲れる。
当然、誰にも相手にされなくなる。
そうして、ますます劣等感を深め、精神的だけでなく、肉体的な疾病の症状まで出てくるようになる。

劣等感は、どうして起こるかを説明する。
人間の自我というものは、比較をするのが本質だ。
そして、人間は、自分の肉体や心の負荷しか感じない。
つまり、疲れ、痛み、重さ、悲しさ、悔しさなどは、自分のものしか感じない。
「他人の痛みを分かれ」
と言っても分かるはずがない。
それが分かるには、想像力が必要だということはお分かりと思う。
しかし、現代人には想像力がない。
これは何を意味するか、分かるだろうか?
つまり、痛みは自分にしかないと思い込むのだ。
痛みも、苦しさも、悩みも、焦りも、妬みも、嫉妬も、自分にだけあるのだと感じるのだ。
そんなものを持っているのが自分だけだと感じるなら、深い劣等感を持つのは当たり前ではないだろうか?
他人がそんなものを持っているとは思えないのだから、それを唯一持っている自分は劣っていると思い込んでしまうからだ。

実に想像力の欠如が劣等感の原因である。
だが、現代の学校は、子供達の想像力を速やかに殺している。
想像力があったら、試験の点が取れないからだ。
想像力があったら、学校が正解とする解答を認める訳にはいかないのである。
大企業の宣伝も、想像力のある者にはうそ臭くて見ていられない。
だから、大企業は、巧妙なCMの力で、人々の想像力を殺そうとする。
CMなんて絶対に見ちゃいけない。
刺激的な映画や音楽やレジャーも、我々の想像力を激しく打ち壊していく。
娯楽やレジャーやエンターテインメントを提供する企業は、儲けるために、想像力を働かさなくても面白い、刺激の強いものを作るが、人々はそんな刺激に慣れてしまうので、ますます刺激の強いものを作るのだ。
結果、我々の想像力はますます乏しくなり、ますます劣等感が強くなるのだ。

世間が鳴り物入りで宣伝する、刺激に満ちたものを避けることだ。
想像力を取り戻すことだ。
でないと、あなたは劣等感の苦しさで生きるのも辛くなる。
想像力がないと宇宙とつながらない。
宇宙とつながらないと、自分が万能だということを全く感じることができず、無力感に覆われてしまう。
『ネバーエンディング・ストーリー』で言われていた、やってくる不気味な「虚無」とは、想像力の欠如であり、無力感であり、劣等感だ。
それに襲われ、世界は瀕死の状況だ。

昔のインドでは、「私は彼である」と心で言い、自分の至高性を確認した。
この「彼」とは、神のことであり、人々は、クリシュナ神やシヴァ神、ビシュヌ神、ラーマ神といった神々の中の、自分のお気に入りの神を「彼」と考えていた。
その神に自分が等しいことを常に言い聞かせ、劣等感が入り込む余地はなかった。
しかし、インドの人達だって、それを忘れて久しく、やはり、劣等感が強くなっている。
「私は彼である」と思う時は、息を止めるのが決まりだ。
「私はこれではない」と思いながら息を吐き、「私は誰か?」と思いながら息を吸い、息を止めて、「私は彼である」と心で言う。
賢い人は、それを何度も繰り返したりはしない。
1回か2回で「決める」。
それで神秘力が得られることは、ラマナ・マハルシのような聖者さえ認めている。
だが、神秘力に執着してはいけないとも教えている。

ところが、不思議なことに、肛門を締めれば、想像力が高まり、劣等感が消えていく。
現代人が、良きにつけ悪しきにつけ、頭ばかりに意識があるところを、肛門を締めることで、意識を、胸、腹に降ろしていけるからだ。
意識を胸においてぼうっとすると、大抵のものごとはうまくいく。
そのためには、人差し指を立てるという手もある。
人差し指を立てると、肩から力が抜け、ある程度は肛門が締まる。
これだけでも習慣にすると、かなり楽に生きられる。
だが、肛門を締めることはもっと強力だ。
気が付くごとに、肛門を締めれば、劣等感もなくなり、何でもうまくいくようになる。
大体、肛門が若々しく強く締まった劣等感の強いやつなどいるはずがない。
肛門の締まった者は、悪口を言わないし、自慢もしない。
肛門を締めると、下腹も引き締まってくる。
そうなれば、下腹がたるんだ人々のものである、井戸端会議で、そこにいない人の陰口を楽しむのも終わりになる。
そんな下らない楽しみより、はるかに大きな本当の楽しみがいっぱいあるからだ。
その後は、自己暗示が有効になるので、人生は思うがままである。









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