初音ミクさん主演のオペラ『THE END』の中の『時空のアリア』というアリア(詠唱。旋律的、叙情的な独唱のこと)で、ミクが、「私は昔、確かにここで指を切って地面に血が垂れた。でも、その跡がどこにもない。あまり昔のことだったからか、それとも、嘘の記憶だったの?」という意味のことを歌う。
偽の記憶というものは、さほど珍しいものではない。
確かに、そんな出来事があったと思っているのに、本当はそんなことはなかったのだというものだ。
あるいは、この歌のように、自分の経験だとは思うが、実際にあったことかどうか、自分でもはっきりしないというものもある。
また、その逆もある。
実際にあったことなのに、まるで夢の中の出来事か、自分が想像しただけのような気がする。
さらには、自分に実際に起こったことなのに、記憶がないということもある。
筒井康隆さんの『悪夢の真相』では、中学2年生の昌子が、幼い頃にいた村に行き、幼友達の少女と再会するが、2人にとって極めて重大な事件を、昌子は完全に忘れてしまっているのに、相手の少女ははっきり覚えていた。
L.ロン.ハバートの『フィアー』では、民俗学者のジェームズが失った4時間の記憶は、実に恐ろしいものだった。
※『悪夢の真相』は、角川文庫の『時をかける少女』に収録
ところで、私には、いまだ嘘か本当か分からないという思い出がある。
自分では、確実に本当にあったことだと思っている。
実に鮮明な記憶で、あんなことを幼い自分が空想で思い描くことは不可能と思う。
それは、私が6つの時のことだ
男の子の友達が、スタンドを固定して立てた自転車に座って、私はそのまん前あたりにいた。
周囲には、何人かの大人達がいた。
しばらくして、その男の子が動き過ぎて、彼が座っていた自転車が倒れ、彼は地面に仰向けに落下した。
すると、上を向いて寝転がっていた彼の額に、髪の毛の下からおびただしい、真っ赤な血が流れてきた。
彼は苦しそうな顔で泣いている。
私は、大人達が大慌てで、緊迫と共に、彼を助けようとするに違いないと思った。
ところが・・・
彼の母親だったろうか、一人のおばさんが、「あらあら」と、およそ緊張感のない気楽な声を出しながら彼に近寄り、何もせずに見ている。
私は、本気で、それは、大したことではないのだろうかと思ったほどだった。
数年後、私は、その男の子に、この時のことについて尋ねてみた。
すると彼は、「そんなこと、僕は知らない」と言う。
ところが、彼は、本当に知らないというよりは、まるで、そのことに触れられたくないという雰囲気で、私を見ようとしない。
物理的には、仰向けで後頭部を強打して額に血が流れるとは考え難い。
だから、私の想像だったのだろうが、いまだ、その光景は鮮明なのだ。
しかし、やはり私の作り出したイリュージョン(幻影)だったのだろう。
私は、今は、一瞬で創ったイメージを、即座に記憶に焼付け、それが本当に起こったように思うことがある。
それは、意識が一瞬空白になった時にあることだ。
ところで、ここが重要なことなのだが、心にとって、本当の記憶と嘘の記憶に違いはない。
現実かそうでないかに関わらず、全ての記憶が本当であると同時に嘘でもある。
そして、過去の記憶を創れるなら、未来の記憶も創れる。
潜在意識にとって、過去、現在、未来に違いはなく、全て現在である。
過去は修正できるし、未来は自由に創造できる。
ただ、人に応じて、それらに制限があるだけのことで、誰しも過去を修正しているし、未来を創造している。
その制限を外せば、世界は意のままで、あなたは自由自在である。
そして、制限を外す方法はかなり分かっている。
私は、そんなことを書いているし、より良いものを書こうとするのであるが、それにも、何かの理由で制限があるようである。
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偽の記憶というものは、さほど珍しいものではない。
確かに、そんな出来事があったと思っているのに、本当はそんなことはなかったのだというものだ。
あるいは、この歌のように、自分の経験だとは思うが、実際にあったことかどうか、自分でもはっきりしないというものもある。
また、その逆もある。
実際にあったことなのに、まるで夢の中の出来事か、自分が想像しただけのような気がする。
さらには、自分に実際に起こったことなのに、記憶がないということもある。
筒井康隆さんの『悪夢の真相』では、中学2年生の昌子が、幼い頃にいた村に行き、幼友達の少女と再会するが、2人にとって極めて重大な事件を、昌子は完全に忘れてしまっているのに、相手の少女ははっきり覚えていた。
L.ロン.ハバートの『フィアー』では、民俗学者のジェームズが失った4時間の記憶は、実に恐ろしいものだった。
※『悪夢の真相』は、角川文庫の『時をかける少女』に収録
ところで、私には、いまだ嘘か本当か分からないという思い出がある。
自分では、確実に本当にあったことだと思っている。
実に鮮明な記憶で、あんなことを幼い自分が空想で思い描くことは不可能と思う。
それは、私が6つの時のことだ
男の子の友達が、スタンドを固定して立てた自転車に座って、私はそのまん前あたりにいた。
周囲には、何人かの大人達がいた。
しばらくして、その男の子が動き過ぎて、彼が座っていた自転車が倒れ、彼は地面に仰向けに落下した。
すると、上を向いて寝転がっていた彼の額に、髪の毛の下からおびただしい、真っ赤な血が流れてきた。
彼は苦しそうな顔で泣いている。
私は、大人達が大慌てで、緊迫と共に、彼を助けようとするに違いないと思った。
ところが・・・
彼の母親だったろうか、一人のおばさんが、「あらあら」と、およそ緊張感のない気楽な声を出しながら彼に近寄り、何もせずに見ている。
私は、本気で、それは、大したことではないのだろうかと思ったほどだった。
数年後、私は、その男の子に、この時のことについて尋ねてみた。
すると彼は、「そんなこと、僕は知らない」と言う。
ところが、彼は、本当に知らないというよりは、まるで、そのことに触れられたくないという雰囲気で、私を見ようとしない。
物理的には、仰向けで後頭部を強打して額に血が流れるとは考え難い。
だから、私の想像だったのだろうが、いまだ、その光景は鮮明なのだ。
しかし、やはり私の作り出したイリュージョン(幻影)だったのだろう。
私は、今は、一瞬で創ったイメージを、即座に記憶に焼付け、それが本当に起こったように思うことがある。
それは、意識が一瞬空白になった時にあることだ。
ところで、ここが重要なことなのだが、心にとって、本当の記憶と嘘の記憶に違いはない。
現実かそうでないかに関わらず、全ての記憶が本当であると同時に嘘でもある。
そして、過去の記憶を創れるなら、未来の記憶も創れる。
潜在意識にとって、過去、現在、未来に違いはなく、全て現在である。
過去は修正できるし、未来は自由に創造できる。
ただ、人に応じて、それらに制限があるだけのことで、誰しも過去を修正しているし、未来を創造している。
その制限を外せば、世界は意のままで、あなたは自由自在である。
そして、制限を外す方法はかなり分かっている。
私は、そんなことを書いているし、より良いものを書こうとするのであるが、それにも、何かの理由で制限があるようである。
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過去にせよ未来にせよ、記憶が触れないイメージ、実態のない情報であるわけで。結構頻繁に削除したり上書きしたりを、無意識に繰り返しているものなのか。
思い込みやこだわり、執着があれば、その記憶はもはや妄想というか一種の呪いになっているとおもいます。それこそ災難をも呼び寄せかねないほど。
自由自在というのは、そんな思い込み(諸常識)からの脱却を言うものかもしれません。自分は@@である、という強い暗示は常に自らの思考と行動を制限しているわけで。
自己暗示については、懐疑的であったのですが(マーフィの本とか持っていても)、新たなこだわり(呪い)をつくるような真似をしなければ、なるほど良いものであると。
お金や異性、地位や名誉などを追い求める、自身の不安感や欠乏感からのものでなければ、本来、暗示は記憶(思い込み)の上書きに有効であるとおもえました。
私自身、吃音癖のイメージに悩んできましたが、家族の病気をきっかけに、終わった過去のものにすることができました。治りたい、ではなく、既に治った、という感じですね。
自分の現在というか、思考や行動を制限するのは、個人的な常識です、そう実感しました。もちろんそれも、運命というような大きなながれがあってのことでしょうが。
タイミングが来たのか、アクセル・ワールドをやっと購入しました、早速読んでみます。信念の魔術は・・、何故か手が伸びませんが、まあ無理はしません。
興味ふかい記事をいつもありがとうございます。