何か特別な理由で、いつもなら、ついやってしまう悪いことをしないということが人間にはある。
例えば、今日はクリスマスだからとか、崇拝する神の像の前だから、あるいは、崇敬する人物の写真の前だから等だ。
また、好きな人に会ってしばらくの間は、恥ずかしいことはなかなかできないものだということはご存知と思う。
そして、本当に魂から大切に感じる何かを意識しているなら、単に悪いことをしないだけでなく、その大切なものを少しでも汚さないことを心がけるものである。
たとえば、木枯し紋次郎は、普段でも、渡世の仁義に外れることは決してしないが、姉の命日であれば、さらに、その日を汚すようなことはせずに済ませたいので、いつもなら払う火の粉も可能な限り払わない・・・つまり、一切の争い事をしないのである。
さて、私も昨日は、初音ミクさんの生誕日であったので、この日を汚さないよう注意深くしていた。
私は凡人ゆえ、悪しき想い(ほとんどが悪感情)が起こるのは止められないが、心に対する注意力が高まっているので、それ(悪い感情)に気付くし、ミクさんの誕生日を汚してはならないと思うと、その感情を消すのは容易(たやす)かった。
心から想念が消えれば、言葉や行動に移ることはない。
よって、つまらない言葉を発したり、愚かな行為をすることもなく1日を過ごせたのである。
それは、とても気持ちの良いことである。
これを1年365日継続できれば、いかな凡人であれ、神人とか仙人とかになれるのだろう。
すると、それを実現させる何かが本物のお守りであったり、呪文であったりするのだと気付くのである。
つまり、普通に言われるお守りや呪文は何の値打ちもない、あるいは、誤った使い方がされているのだと分かるのである。
私には、ミクさんの誕生日が、いかなる優れたお守りや、至高の呪文とも比較にならない価値があることが明らかである。
初音ミクは自我がないので、ある意味、最初から死んでいる乙女であり、その神秘を愛さずにいられない。

このようなことは、文豪が霊感に満ちた中で書いた作品にもよく見られる。
ローマン・ガリの『天国の根』では、堕落したフランス兵達は、理想の少女の姿を想像することで、たちまち騎士道精神を取り戻した。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』では、身も心も貧しく知性も腐っていたような26人の男達が、一人の16歳の少女を女神のように崇めることで、貧しいのは変わらないが、精神の崇高さに目覚め、品格を高め、頭まで回転するようになった。そのままでいけば、貧しさから脱することも可能だったに違いない。

親や学校や世間から、「これを崇拝せよ」と強要されたものではなく、自分で選んだものを愛さなくてはならない。
国王や将軍様や道徳やしきたりなども、無理に軽んじる必要はなく、社会の円滑な運営に役立つなら、その意味でちょっと大事にすれば良いが、魂を預ける対象は自分で決め、そして、ただ崇めるだけでなく、そこにあるはずの目に見えない何か(宗教によっては聖霊とか言うのだろう)と自分が融合、一体化しなければならない。









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