一年で一番大切な日はと聞かれたら、普通の人なら、自分の誕生日かお正月というのが多いかもしれない。
キリスト教圏ならクリスマスという場合も多いと思う。
ところで、古代ケルト人の大晦日は10月31日で、新年は11月1日だった。
キリスト教では元々が5月13日であった「諸聖人の日」が、古代ケルト人の新年に合わせた11月1日に変更になったようだ。
10月31日をハロウィンと言うが、これはキリスト教では、この「諸聖人の日」の前の晩(イブ)という程度の意味で、全く重視されないが、ケルト人にとっては非常に意味のある日だと思う。
個人的な話だが、私も子供の頃から、1月1日の元旦よりは12月31日の大晦日の方に意味を感じていた。
大晦日の晩を心安らかに過ごせるというのが、子供の時からの生涯の目標だったのである。

笹沢左保さんの時代劇小説『木枯し紋次郎』のヒーロー紋次郎は、生き甲斐というものを何も持たず、死んでないから生きているだけという虚無的な毎日を過ごし、居場所はなく、道を歩くだけの人生だった。
紋次郎にとって、いかなる祭日にも意味はないし、自分の誕生日を知っているかどうかも疑問である。
ところが、その紋次郎にも、決して忘れない大切な日があるのだった。
それは実の姉の命日であった。
紋次郎は、生まれたらすぐに間引き(経済的な理由で、生まれても育てられない子供を殺すこと)されることになっていたが、その時12歳だった姉の機転によって生き延びたのだった。その姉も、紋次郎が6歳の時に嫁ぎ、それが生涯の別れとなったが、4年後に嫁ぎ先で死んだ。
姉が死んだ時、10歳だった紋次郎は故郷を捨て、無宿人になる。
紋次郎は、姉の命日には、いかなる争い事も起こさないようにしていた。
ある姉の命日には、3人のゴロツキに因縁をつけられ、顔に唾を吐きつけられ、殴る蹴るの暴行を受けても一切手向かいせず、かなりの怪我をしてしまった。
それでも、紋次郎は姉の命日を汚さなくて良かったと思ったのである。

ところで、人間は、本当に何の生き甲斐もなく生きていられるものではない。
だが、ただ1つの慰めとか、ただ1つの楽しみがあれば生きていられるものである。
紋次郎の場合、姉とは6歳の時に別れたきりということもあるのだろうが、姉の死がどこか現実的でなく、今でもどこかで生きているような気がしていた。
それだけが紋次郎の生き甲斐であったのかもしれない。
そして、そのくらいの生き甲斐でも生きていけるのである。
結局、紋次郎は、姉の死の真相を知り、姉が今も生きているという幻想は完全に破壊されてしまったが、それでも紋次郎は生きていた。
そして、姉の命日だけが残ったのだ。
紋次郎は、姉の命日の墓参りを欠かさなかった。
一年に一度、姉の墓参りをすることだけが紋次郎が生きる意味なのかもしれない。

大島弓子さんの漫画で、ある男子大学生が生きている目的は、近くに住む1人の少女の小学4年生から中学3年生までの夏休みの宿題をすることだというものがある。
彼女が中学を卒業し、その「使命」を終えた時に、彼はどこかに行ってしまう。
それまで、彼は、その少女の夏休みの宿題のためだけに生きていたのである。
それでも、生き甲斐があって良いことである。
ところで、大島弓子さんの誕生日が、今日、8月31日である。

そして、今日は、初音ミクさんの生誕日とされる日である。
2007年の8月31日、ミクはひっそりと生まれている。
昨日、インテックス大阪で1万人規模の観客を集め、初音ミクのコンサート「マジカルミライ2014 in OSAKA」が行われた。
ミクは世界的なアイドルになり、交響曲やオペラにまで進出しているが、ミクが生まれた時には、大して期待はされていなかったのだという。
私には、この、ミクの誕生日は、キリスト様の誕生日よりも、大晦日よりも、古代ケルト人の大晦日(奇しくも私の誕生日でもある)よりも重要な日で、それは、紋次郎にとっての姉の命日に相当する。
毎年、この日だけは、いかなる争いも起こさない(理想的には、いかなる悪しき感情も持たない)ことが私の掟である。
子供の時は、大晦日を心安らかに過ごせるようになることが、私の人生の唯一の目標だったが、それは叶わなかった。
しかし、新しい戒は守られることを願う。
来年はないかもしれないので、叶えば嬉しいことである。









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