私は言われたことがないし、今でもあるのかどうかは知らないが、キャバレーでの客の呼び込みでは、「社長さん」と言うらしい(店内でもそう言うのだと思う)。
もちろん、大抵の通行人は社長でないが、それが通説であるところを見ると、それが呼び込みの成功確率が高い呼びかけ方なのだろう。
学校で教師のことを「先生」と呼ぶのも、これと全く同じである。

学校の教師を「先生」と呼ぶのは、キャバレーの客引きが誰彼となしに「社長」と呼ぶのと同じである。
これは、教師もそうでない者も、皆、認識すべきことである。
確かに、ゴキブリほどの数のいる教師の名前をいちいち覚えなくて済むし、他の呼び方を考えるのも面倒という理由で「先生」と呼ぶのは名案であるが、つまりは、その程度なのである。
日本では、医者も弁護士も博士も教師も皆、「先生」である。
今はもうないと思うが、以前は、中国に行けば、日本人は皆、「先生」だった。
中国人が日本人を「先生」と呼ぶのは、どこか、からかった雰囲気があったし、そうでなければ、やはり、仕方なしといったものだったのだろう。
医者や弁護士や博士を「先生」と呼ぶのだって、つまるところ、他の言い方をするのが面倒だからに他ならない。

医者や教師が、自分は「先生」と呼ばれる器でないと自覚していても、彼らに、「その呼び方はやめてください」と言われても、こっちが困ってしまうだろう。
つまり、「いちいちアンタの名前覚えるの、面倒なんです。医者は他にもいっぱいいますし」ということなのだ。
「先生」と呼ばれる人は、その呼び方は、そんな理由か、キャバレーの呼び込みの「社長」と同じ意味だと、しっかり自覚しなければならない。

私も企業にコンサルタントや技術指導に言くと「先生」と呼ばれてしまうが、明らかに気持ち悪いと感じるのは、まともな感覚なのだろう。
社長さんにまで「先生」と呼ばれると、本当にビルの屋上から飛び降りたくなってしまうほどだ。
私の場合、先生と呼ばれるだけの実力が到底ないことを自覚しているからなのであるが、考えてみれば、教師だろうが、医者、弁護士、博士だろうが、本来、皆、そうであるはずなのだ。
以前、ソフトブレーン創業者の宋文洲さんとお会いした時、私が「宋先生」と呼ぶと、宋さんは、「先生などと呼ばないで下さい」と、本当に恐縮しておられた。
明らかに三下(取るに足らない者。下っ端)にしか見えない私が呼んでさえそうであるのだから、宋さんというのは、本当にまともな感覚の持ち主なんだなあと思ったものだった。
当時の宋さんは、まだ今ほどの貫禄ではなかったが、工学博士で、しかも、専門分野の発明で富を得て起業した会社は十分に発展していたのだから、そこらの似非先生共を三下扱いしても、特に誰も文句は言うまいが、もちろん、まともな人間はそんなことはしない。
宋さんは、謙虚と言うべきなのは確かだが、それ以前に、まともなのである。

木枯し紋次郎は、初対面の相手には、大抵「親分さん」と呼ばれる。
まあ、当時の渡世人(博徒。やくざ)を呼ぶ時はそれが習慣みたいなもので、今の教師に対する「先生」みたいなものだろう。
それで、ほとんどの渡世人は、そう呼ばれて平気だが、紋次郎は、「あっしは親分なんて貫禄じゃあござんせん」とか、「親分はやめておくんなさい」と、その呼び方を拒否する。
しかし、紋次郎の場合は、誰の目から見ても、その貫禄は親分以外の何者でもない。
その実力、凄みが隠しようもないほど溢れているのである。
つまり、本物である。

ギリシャのデルフォイ神殿に書かれているソクラテスのお気に入りの言葉であり、また、徳川家康が天下取りの秘訣をそれだといった言葉が、「身の程を知れ」だった。
身の程を知る者が本物である。
そして、家康が言うように、身の程を知ることを忘れないようにすれば、天下人にもなれるのだろう。
しかし、それは99パーセント以上の人間には非常に難しいことである。
だから、ほとんどの者は、医者も、弁護士も、博士も、教師も、ニートも、乞食も皆、一生、三下なのである。
ただ、その中では、ニートと乞食は三下から脱出する可能性があるのである。
自分が三下以下であることを自覚しやすいからだ。
イエスもそのようなことを言っていたと思う。
「人の世で一番小さな者が天では一番大きく、人の世で一番大きな者が天では一番小さい」
釈迦も特にその点は強調していたように思う。









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