小説やテレビドラマなどで、主人公が1人で映画やコンサートに行くと、隣の席に、たまたま、クラスの、あるいは、職場の気になる人がいたなんて話になると、
「そんな馬鹿げた偶然があるもんか」
と言う人が多いかもしれないが、私はちっともおかしいと思わない。
そんなことはありふれているからだ。
私は、出張で大阪から東京に行く新幹線の中で、ちょうどその時、「逢いたいなあ」と思った人が目の前に現れたことがあるし、お互い、およそ行きそうにない場所をドライブしてたら、彼女の赤い軽自動車が、信号で隣にぴたりと止まっていたということもあった。
何度かこのブログでも書いたが、これは人に逢った話ではないが、ずっと以前に見たテレビドラマのある回を録画したいと思って、ビデオの録画スイッチ(まだ、VHSビデオで録画していた時代)を握って、テレビを見ながら待っていたら、すぐにその再放送が始まった。もちろん、事前に番組予定を調べていたのではなく、ただの当てずっぽうだった。
こういったことは、いくらでも、当たり前に起こるのだが、それは、あなたも同じなのだ。
だが、ほとんどの人がそれに気付かないのである。

私は、そんなことにより命拾いしたこともあるし、条件のよい仕事を得、あり難い特技を得て、実力はないのに、何をやってもうまくいった。
一方、私の数倍実力があるのに、何をやっても駄目な者が沢山いた。
私のようにやるのは簡単なのである。

『木枯し紋次郎』を読むと、紋次郎の周囲では、大海原で一本の針を見つけるような偶然が何度も起こるが、私には、ただそれが純粋に感動的で面白く、どこにも不自然さを感じないのである。
優れた小説なんてのは、決して、著者が頭で考えて書いているんじゃない。
魂の中から来るものを、作家が書き留めるだけなのである。
紋次郎なら、どんなことが起こっても何の不思議もない。
命が惜しいとも、不幸を避けようとも思っていない紋次郎は、どんな最悪の状況でも、1ミリも動揺しない。
年中旅をしているが、滅多なことでは旅籠(はたご。旅館のこと)に留まらず、野宿か荒れ寺のような場所で眠る。
自分は旅籠に宿泊するような身分の者ではないと思っているからだ。
誰も信じないかわりに、誰も疑わない。
どんなことがあっても堅気の人間に迷惑をかけないことを絶対の掟とし、たとえ知らずにやったことでも、まっとうに生きている人間、女、老人に害を為せば、
「知らなかったで通ることじゃござんせん」
と言って、命すら差し出す。
そんな人間の周りでは、いかなる奇跡でも起こるのである。
『木枯し紋次郎』を読むようになってから、私には、シンクロニシティ(共時性)やセレンディピティーがますます起こるようになり、精神的にはちょっと悩ましいところはあるが、まあ、退屈していないのである。









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