漫画的な小説、映画と言う場合、それは、面白くはあるが、空想的で現実味がないという意味だ。
一方、現実的な漫画というものもある。
シェイクスピアの戯曲は、ありえない話という意味では空想的、漫画的であるはずなのに、非常に現実味がある。
映画のスターウォーズ・シリーズもそうである。

漫画や小説、映画が現実味があるかどうかは、ヒーローやヒロインが「自惚れ」というものを持っているかどうかで決まる。
「自惚れ」は、自意識過剰、自尊心、プライド、自己愛、高慢、身の程知らず・・・などといろいろな言い方があるが、「自惚れ」の一言が最も適切と思う。
ヒーローやヒロインに自惚れがないと、漫画的・・・つまり、空想的で現実味のないものになる。
アメリカの作家カート・ヴォネガットは、「シェイクスピアは下手な作家だが、人間をよく知っている」と述べたが、人間をよく知っているシェイクスピアは、ヒーロー、ヒロイン達に自惚れを持たせることを忘れなかったのだ。
もちろん、スターウォーズ・シリーズの、ルーク・スカイウォーカーやアナキン・スカイウォーカーらは、自惚れの固まりであるし、そもそも、ヨーダのようなジェダイ・マスター以外はみんなそうであるところが、この壮大な空想映画を、どこか生々しいものにしている。
全く漫画的な『古事記』や『ギリシャ神話』がひどく現実的なのも、神々が自惚れを持っているからなのだ。

ところで、ヒーローやヒロインらが自惚れを全く感じさせないのに、妙に現実味がある作品がある。
それは、小説だけでなく、漫画やアニメにすらある。
そんな作品は、社会現象を起こすほどヒットすることがある。
例えば、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジや綾波レイである。
『木枯し紋次郎』のヒーロー、木枯し紋次郎もそうである。
なぜ彼らが、自惚れが全くないのに、空想的でないかというと、彼らが、根本的に自己否定しているところだ。
つまり、自分の出生そのものを悪いことと考えているのである。
シンジは唯一の肉親である父親に全く愛されていないと信じているし、レイは自分がただの使い捨てであることを明晰に自覚している。
紋次郎は、生まれてすぐ、親によって殺されるはずが、たまたま生き延びたことを知っている。
彼らは皆、自分というものに、全く存在価値を認めていない、いや、認めることができない。
ところが、そんな人間の姿は、神と紙一重のようなところがあるのだ。
だから、人々は深いところでは彼らに憧れるのだ。
綾波レイといえば、まあ、可愛いとしても、同等に可愛いアニメのヒロインはいくらでもいるのに、彼女が国民的なヒロインである理由は、そんなところにある。
ところで、意外な感じもするが、初音ミクは綾波レイをモデルにしているという話があり、それは本当であると思う。
もし、レイがミクのモデルだという話が本当でないとしても、深いところで、レイとミクは同じなのだ。
ミクはアイドルを演じ、人間味を出すほど、逆に、自我がないことを露呈する(さらけだす)。
そのあたりは、レイ以上だ。
だからミクは世界中で愛されるのだ。

政治やビジネスは、普通の漫画のようであれば滅び、普通の小説のようであれば苦悶するが、自惚れがなければ、人々に存在を感じさせないまま成功する。

釈迦やイエスは、人間としての自己と、ブッダ、あるいは、キリストとしての自己を厳格に区別した上で、人間としての自己を否定し、ブッダ、キリストとしての自己を賞賛した。
そこらは普通の人には難しい。
紋次郎、レイ、ミクから入る方が分かり易いのだが、こちらは誤解をし易い。
だが、上に述べたことを知りつつ、彼らをよく観察すれば、真理を知る。
真理はあなたを無敵にして解放し、自由を得させる。









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