「Aさんは無責任だ」と言う人で、Aさんと同じくらい無責任でない者は絶対にいない。
「Bさんは傲慢だ」と言う人は、万に一つの例外なく、Bさんと同等に傲慢だ。
それどころか、非難する度に、その欠点は大きくなる。
「C君は思いやりが無いね」といつも言う教師は、間違いなく、C君よりも思いやりがない。

傲慢、無責任といった欠点を感じる相手に対してどうすれば良いのだろう?
ただ大目に見ることだ。
「そんなことを言っていたら、教育や指導ができないではないか?」
と言うなら、そんなものしなくて良いと言っておく。
神を恐れよと言いたい。
相手と同じ欠点を持つ者が、どんな指導をしようというのだ?
教育ってのは、生きていくために必要な技術やルールを教えることであり、無責任を矯正する教育など、この世にも、どこの世にもないのだ。
良識は世界が教えてくれる。
良識がないと、悪いことばかり起こって苦しむだろう?
だが、良い教師は、そこにいるだけで苦しみを克服するための手助けができるのだ。

最近、「僕は何をやっても駄目なんです」と言われることがよくある。
そんな時、私は思うのだ。
「意気地がないな」
それは、自分に対してである。
教育というのではないが、そんな相手には何を言えば良いだろう?
アメリカの自己啓発プログラムでは、「あなたは本当は素晴らしい」とか言うのだろう。
逆効果も甚だしいことだ。
自分が駄目だと思っている相手には、
「君は少しも駄目じゃない。自分でそう思っているだけだ」
とだけ言ってやれば良い。

私は言われることはないが、「君は優秀だな」と言ってくる者がいたら、何か魂胆がある・・・とまでは言わないが(言ってるも同然だが)、まともな評価ではないから喜ばない方が良い。
本当に優れていると思っている相手に対しては、畏怖してしまって、そんなことは言えないものだよ。

相手の美点を無理に見る必要はない。
まして、相手の良いところを見つけようなんて寝言をほざく気は毛頭ない。
それほど馬鹿げたことはない。
同じ美点を持っていない限り、相手からそれを感じることは決してない。
純粋に、「あの人は優しいなあ」と思う者は、もうすでに同じくらい優しいのだ。
本当のことを言うと、誰でも全ての美点は最初から持っている。
しかし、他人の良いところを見ようなんて者は、人間の優れた性質に違和感を感じているのだ。
そんな人にとっては、良心というものが、変な色の傘のように、単に珍しいのだ。
人間の内に秘められた美しさを自然に感じられるなら、それをことさら問題にしないはずだ。
聖人の気高い行為に涙する者は、やっぱり偽善者だ。
その手の話に涙もろい私が言うのだから間違いないだろう。
聖者にとって聖者の行いは、水が高いところから低いところに流れるように自然なことなのだ。
そして、本物の聖者は、高貴な行いを笑う者のことは、そのまま受け入れるし、未熟な賢者であっても、愚か者を大目に見るのである。









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