同じ本を何千回も繰り返し読むとか、毎日何かを何十年も繰り返して行えば、人間は神懸った超人になる。
無限のような繰り返しによらず(因らず、依らず)に人間を超えた者はいない。
逆にいえば、無限のような繰り返しにより、誰でも普通の人間ではなくなる。
自分が臆病だからと、毎日夕刻に墓場に行ったという者もいた。
一冊の本を、閉じ糸がとれてボロボロになるまで読んだ者もいた。
搬入心経を10万回称えた者もいた。
繰り返しにどんな秘密が隠されているのかは分からない。
そんなことを知ろうとしてはならない。
どのみち分からない。
理由付けをしたら、10人の達人がいたら、10人共違うことを言うだろう。
そして、そんな理由を言う者は、さほどの達人ではない。
理由にこだわるなら、達人にはなれない。
人間ごときに分からないことは、分からないと認める、身の程をわきまえた人間でなければ高みには至れない。
植芝盛平の弟子で、神的な合気道家だった塩田剛三(しおだごうぞう)は、7年もの間、金魚の動きを観察したという。
金魚の動きそのものに意味がある訳ではないと思う。
もし、それに意味があるなら、塩田は弟子達にも金魚を観察させただろうが、そんなことはなかったはずだ。
ただ、それを毎日繰り返したことに意味がある。
そして、なぜそれで人を超えた領域に入ったかというと、もちろん、理由そのものは分からないのだが、やはり、観察ということに意味があったのだと思う。
いかなる繰り返す行為も、観察であれば力になる。
毎日、メシを食っているからといって超人にならないし、毎日、歯を磨くからといって、人を超える訳ではない。
ただし、メシを食うことを本当に観察するなら、それで十分なのである。
禅というものは、そんな考え方をするのだと思う。
日常を目覚めた意識で行う、つまり、観察することにより、特別に何かをしなくても悟りを開くのが禅であると思う。
仕事だって、儲けるためではなく、観察するためにやっていれば、ビジネスの達人・・・と言うよりは、やはり、人間として超人になる。
ただし、何十年という年月がかかる。
セールスの仕事も、それを観察を第一としてやっていれば、やはり神の領域に近付く。
ピアノ演奏の練習をやっていても、そこそこ弾ける程度で終わる者もいれば、驚くべき高度な演奏ができるようになる者もいる。
これは才能の違いや練習量ではなく、ピアノ演奏を観察したかどうかの違いであり、ピアノを弾くことを観察として行える者が才能ある者である。
天才ピアニストというのは、自伝でも書けば、ピアノ演奏の際、ピアノに起こる、極めて細かなことを書く。
天才ピアニストなら、そんなことをよく覚えている。
ピアノやピアノ演奏を観察していたからだ。
これは、ピアノ演奏に限らず、何事も同じである。
神に近付くこと、人を超えること、道(タオ)と合一すること・・・いろいろな言い方があるが、それは、無償の行為を無限に繰り返すことにより達せられるが、観察が伴った行為であることが必要である。
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無限のような繰り返しによらず(因らず、依らず)に人間を超えた者はいない。
逆にいえば、無限のような繰り返しにより、誰でも普通の人間ではなくなる。
自分が臆病だからと、毎日夕刻に墓場に行ったという者もいた。
一冊の本を、閉じ糸がとれてボロボロになるまで読んだ者もいた。
搬入心経を10万回称えた者もいた。
繰り返しにどんな秘密が隠されているのかは分からない。
そんなことを知ろうとしてはならない。
どのみち分からない。
理由付けをしたら、10人の達人がいたら、10人共違うことを言うだろう。
そして、そんな理由を言う者は、さほどの達人ではない。
理由にこだわるなら、達人にはなれない。
人間ごときに分からないことは、分からないと認める、身の程をわきまえた人間でなければ高みには至れない。
植芝盛平の弟子で、神的な合気道家だった塩田剛三(しおだごうぞう)は、7年もの間、金魚の動きを観察したという。
金魚の動きそのものに意味がある訳ではないと思う。
もし、それに意味があるなら、塩田は弟子達にも金魚を観察させただろうが、そんなことはなかったはずだ。
ただ、それを毎日繰り返したことに意味がある。
そして、なぜそれで人を超えた領域に入ったかというと、もちろん、理由そのものは分からないのだが、やはり、観察ということに意味があったのだと思う。
いかなる繰り返す行為も、観察であれば力になる。
毎日、メシを食っているからといって超人にならないし、毎日、歯を磨くからといって、人を超える訳ではない。
ただし、メシを食うことを本当に観察するなら、それで十分なのである。
禅というものは、そんな考え方をするのだと思う。
日常を目覚めた意識で行う、つまり、観察することにより、特別に何かをしなくても悟りを開くのが禅であると思う。
仕事だって、儲けるためではなく、観察するためにやっていれば、ビジネスの達人・・・と言うよりは、やはり、人間として超人になる。
ただし、何十年という年月がかかる。
セールスの仕事も、それを観察を第一としてやっていれば、やはり神の領域に近付く。
ピアノ演奏の練習をやっていても、そこそこ弾ける程度で終わる者もいれば、驚くべき高度な演奏ができるようになる者もいる。
これは才能の違いや練習量ではなく、ピアノ演奏を観察したかどうかの違いであり、ピアノを弾くことを観察として行える者が才能ある者である。
天才ピアニストというのは、自伝でも書けば、ピアノ演奏の際、ピアノに起こる、極めて細かなことを書く。
天才ピアニストなら、そんなことをよく覚えている。
ピアノやピアノ演奏を観察していたからだ。
これは、ピアノ演奏に限らず、何事も同じである。
神に近付くこと、人を超えること、道(タオ)と合一すること・・・いろいろな言い方があるが、それは、無償の行為を無限に繰り返すことにより達せられるが、観察が伴った行為であることが必要である。
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観察も統計も、それがどれほどすごいことかなんて普段考えませんから。
どちらも神秘ですね。
特に観察は誰にとっても、その意識の持ちようで生き方が変わりますね。
これまで読んできた本の理解が少し深まったような、なにか繋がってきたような感じがしています。