恨みとか復讐心というのは、生きるエネルギーになることもあれば、心を無気力にしてしまうこともある。
その違いは割とはっきりしている。
誰かへの憎しみを持った時は、心が重く沈み、無気力になる。
人に対する憎しみというのは、プライドとか自分へのこだわり、損得計算から出るもので、つまり、小我から起こるものだ。
小我の持つエネルギーは極めて小さいのだから、大したことはできないし、小我の想いにこだわるなら、当然、無気力になる。

有名な『赤穂浪士』のお話は、ほとんど創作であるらしいが、いずれにせよ、吉良上野介(きらこうずけのすけ。吉良義央)への個人的恨みでは、あのようにはいかない。
高倉健さんが大石内蔵助(おおいしくらのすけ。大石良雄以)を演じた映画では、最後、大石が怒りに燃えて吉良を切るのであるが、あれは駄目だ。
大石は、あくまで、主君、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ。浅野長矩)の無念を晴らしたかったのである。
もし、大石が吉良への憎悪に燃えていたとすれば、あそこにたどり着くまでに、赤穂浪士は内紛を起こして崩壊していただろうし、そもそも、大石は気力を奮い起こせなかったはずなのだ。

恨みや復讐心がエネルギーになるのは、それ(恨み)が、どこにも向けようがない、晴らし方の分からないものである場合だ。
つまり、人間への憎しみを捨ててしまっている時にエネルギーになる。
なぜなら、悲劇は神が起こしたものであり、神の意図は決して分からないが、小我を超えなければ解消できない痛みであるのだ。
そして、小我を超えれば、凄まじいエネルギーが流入してくるのである。
だから、誰か自分を酷い目に遭わせた者がいたとしても、運命を嘆くのは良いが、その相手自体を憎んだら、不満ばかりで何もできないという、最も惨めな状態で生きるしかなくなる。
運命は、嘆いても仕方のないものだ。
だから、怒りの矛先はどこにも向けられることはない。
怒りはエネルギーであるが、どこにも向けられない怒りは、エネルギーとして自分に戻ってくる。
そして、そのエネルギーを使えるか、自分を破壊させるかは、自分次第だ。
ここが運命の分かれ目なのだ。

最近よくご紹介している『木枯し紋次郎』では、紋次郎は、生まれてすぐ親に殺されそうになったが、紋次郎は親を恨んでいる訳ではない。
親だって、他にどうしようもなかったことを理解してはいる。
運命を嘆いても仕方がないと紋次郎は思っている。自分の無力さをよく知っているのだ。
どこにも向けようのない憎しみは持っているし、若い頃はそれが彼を不安定にしたかもしれないが(紋次郎は物語では30歳位)、虚無的になることで、それ(心が荒れること)を避ける術を身につけたのだろう。
しかし、人に向けない恨みは、紋次郎に帰り、彼に膨大なエネルギーを与えている。
人間をよく知っている作家が書いたものだから本当に面白いのである。

理屈はともかく、恨みや嘆きは持っても構わないし、持つしかない。
悟り済まして見栄を張ったりするな。
しかし、人を憎んではいけない。
運命を定めた神の力の強大さを認め、自分の無力さを受け入れるのだ。
その時、偉大な力と融合する。
スウェーデン映画『処女の泉』では、乞食の兄弟達に可愛い娘をレイプされた上、撲殺された父親を通して、そのことが描かれていたと思う。
ただ、この映画は複雑過ぎて誤解を与えかねない部分がある。性急な判断は禁物である。疑問を宙吊りにしておけば、いつか答が分かるといったものなのである。
何事もそうで、小我による狭い思い込みはいつだって間違いである。









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