新しいことを理解するために、既に知っていることで喩(たと)えると分かり易いことがある。
例えば、電圧を理解するために水圧に喩えるなどだ。
しかし、電圧と水圧とは根本的に違うものだ。

イエスや釈迦はたとえ話の名人だったらしい。
深い真理を、誰にでも分かる喩えで分かり易く説明した。
しかし、喩えはあくまで喩えでしかない。

傲慢な年寄りは、新しいものを、何でも自分が分かるもので喩えようとし、
「たとえば、自動車で言うと、こういうことだな?」
とか言い、それで、相手が自分の喩えを肯定すべきだと思っている。
その喩えが、馬鹿げたほど的外れであってもだ。

本当に新しいことを理解しようと思ったら、自分の知っていることは捨てなければならない。
特に、今の時代の新しいことは、既知のもので役立つものがないことが多い。
例えば、ITで言えば、CGM(消費者構築型メディア)やビッグデータを理解しようと思ったら、過去にある何かで喩えようとしても、それは不可能で、そんなことをすれば、滑稽な大誤解をするだけだ。
過去のもので、本質において近いものがないからだ。
新しいことを理解するためには、謙虚でなければならない。
それなのに、高慢な人間は、自分が知っていることに喩えれば、一足飛びに分かるものだと自惚れている。
CGMやビッグデータを知りたければ、実物を見、自分でやってみれば良い。
ところが偉い年寄りには、自分が劣った立場になるのが嫌だから、決して、そのものを見ようとしたり、まして自分でやろうとしない。
そして、自分が知っているもので喩え、その喩えが適切であると、強引に認めさせようとするのだ。
しかし、全く、的外れだよ。

新しいことを知りたければ、自分の無知を認め、謙虚になることだ。
そうであれば、年がいくつであっても、決して古い人間にはならない。









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