世の中には沢山の瞑想法があり、それぞれに独自のやり方がある。
道元の座禅や、岡田虎二郎の静坐は、細部まで厳格な取り決めがあるが、他の多くの瞑想法もそうである。
比較的自由なやり方のものもあるが、それでも、守らなければならないことは、それなりにあるはずだ。
マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのTM(超越瞑想)は、これのマーケティングを託されたという船井幸雄氏が、「自然瞑想と呼び方を変えた方が良い」と著書で述べておられたが、それはどうだろうと思う。
TMは、1日2回の空腹な時、つまり概ね、朝食前と夕食前に20分行うこととし、背筋を伸ばして座り、心の中で自分専用のマントラをずっと繰り返すというもので、その他の注意を含め、十分に制約が多く、私には、自然なものとは感じられない。
道元や岡田虎二郎が偉大だったといっても、現代の我々がそれに従うのは時代遅れかもしれない。
道元の時代と違い、虎二郎の時代は、既に十分な本があり、虎二郎も非常に多くの書を読んでいた。
特に彼は、明治34年に渡米し、そこでも多くの本を読んだようだ。
しかし、今の世の中にある本や、その他の印刷物の数は、虎二郎の時代とは比較にならないだろう。
無論、私もだが、現代人の大半は虎二郎のように多く勉強してはいないが、触れる情報に関しては桁違いに多いのだ。
ほとんどの人は聞いたら驚くかもしれないが、現在の世の中にある情報のうち、印刷されたアナログ情報は、なんと全体の2%以下で、後はデジタル情報なのだ。
確かにデジタル情報には、下らない情報も多い。
しかし、情報は雑多でも量が多いことに価値があるというのが、少し前から注目されているビッグデータによって分かってきたことだ。
そして、虎二郎の時代は、情報量が圧倒的に少ない上、その情報のかなりのものが、やはり正確さに甚だしく欠けるものであったはずなのだ。
私は、道元や岡田虎二郎、その他の古い時代の偉人達に、おそらく大きな敬意は持っていると思うが、絶対的に崇拝するというのは、明らかにおかしなことと思う。
彼らの誰もコンピュータープログラミングなどは想像もしなかった。
プログラミングの能力を持てば、それが彼らに対しても圧倒的なアドバンテージになる。
プログラミングには、それだけの力がある。
瞑想であれば、道元の座禅、岡田虎二郎の静坐、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのTMをはるかに超えるものを、それぞれが作れなければおかしいと思う。
これらの(座禅等の)瞑想法が合う人もいるが、そうでない人もいるはずだ。
どれも、ぴったりと適合する人は、せいぜい数パーセントで、割合に合う人でもせいぜい4割程度、後は、あまり合わないか、致命的に合わずに、悪い影響があることも少なくないはずだ。
もちろん、ものを深く考える習慣がなく、性急であったりする者も少なくないので、何でも我流というのは勧められないかもしれない。
しかし、これからは、自分独自のものがなければいけない時代だ。
最初は失敗することがあり、また、リスクもあるとしても、自分だけのものを創り出さないといけないのだ。
今、人生がうまくいっていない人というのは、そんな進取の気性に欠けているのである。
私は、瞑想は、座禅でも静坐でもなく、TMはやったことはあるがとおに捨て、私にとっては、これらよりはるかに良いやり方でやっている。
しかし、私は瞑想の指導で儲けて豪邸に住もうなどと思わないので、それを他人に教えようとは思わない。
そして、瞑想程度のことは自分に最も合ったやり方を自分で見つけなければならない。
瞑想自体は価値あることだ。
自分で考えた自分に適した瞑想を行うことは、あらゆることを自分で考え、自分の世界を創造することにもつながるはずである。
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道元の座禅や、岡田虎二郎の静坐は、細部まで厳格な取り決めがあるが、他の多くの瞑想法もそうである。
比較的自由なやり方のものもあるが、それでも、守らなければならないことは、それなりにあるはずだ。
マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのTM(超越瞑想)は、これのマーケティングを託されたという船井幸雄氏が、「自然瞑想と呼び方を変えた方が良い」と著書で述べておられたが、それはどうだろうと思う。
TMは、1日2回の空腹な時、つまり概ね、朝食前と夕食前に20分行うこととし、背筋を伸ばして座り、心の中で自分専用のマントラをずっと繰り返すというもので、その他の注意を含め、十分に制約が多く、私には、自然なものとは感じられない。
道元や岡田虎二郎が偉大だったといっても、現代の我々がそれに従うのは時代遅れかもしれない。
道元の時代と違い、虎二郎の時代は、既に十分な本があり、虎二郎も非常に多くの書を読んでいた。
特に彼は、明治34年に渡米し、そこでも多くの本を読んだようだ。
しかし、今の世の中にある本や、その他の印刷物の数は、虎二郎の時代とは比較にならないだろう。
無論、私もだが、現代人の大半は虎二郎のように多く勉強してはいないが、触れる情報に関しては桁違いに多いのだ。
ほとんどの人は聞いたら驚くかもしれないが、現在の世の中にある情報のうち、印刷されたアナログ情報は、なんと全体の2%以下で、後はデジタル情報なのだ。
確かにデジタル情報には、下らない情報も多い。
しかし、情報は雑多でも量が多いことに価値があるというのが、少し前から注目されているビッグデータによって分かってきたことだ。
そして、虎二郎の時代は、情報量が圧倒的に少ない上、その情報のかなりのものが、やはり正確さに甚だしく欠けるものであったはずなのだ。
私は、道元や岡田虎二郎、その他の古い時代の偉人達に、おそらく大きな敬意は持っていると思うが、絶対的に崇拝するというのは、明らかにおかしなことと思う。
彼らの誰もコンピュータープログラミングなどは想像もしなかった。
プログラミングの能力を持てば、それが彼らに対しても圧倒的なアドバンテージになる。
プログラミングには、それだけの力がある。
瞑想であれば、道元の座禅、岡田虎二郎の静坐、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのTMをはるかに超えるものを、それぞれが作れなければおかしいと思う。
これらの(座禅等の)瞑想法が合う人もいるが、そうでない人もいるはずだ。
どれも、ぴったりと適合する人は、せいぜい数パーセントで、割合に合う人でもせいぜい4割程度、後は、あまり合わないか、致命的に合わずに、悪い影響があることも少なくないはずだ。
もちろん、ものを深く考える習慣がなく、性急であったりする者も少なくないので、何でも我流というのは勧められないかもしれない。
しかし、これからは、自分独自のものがなければいけない時代だ。
最初は失敗することがあり、また、リスクもあるとしても、自分だけのものを創り出さないといけないのだ。
今、人生がうまくいっていない人というのは、そんな進取の気性に欠けているのである。
私は、瞑想は、座禅でも静坐でもなく、TMはやったことはあるがとおに捨て、私にとっては、これらよりはるかに良いやり方でやっている。
しかし、私は瞑想の指導で儲けて豪邸に住もうなどと思わないので、それを他人に教えようとは思わない。
そして、瞑想程度のことは自分に最も合ったやり方を自分で見つけなければならない。
瞑想自体は価値あることだ。
自分で考えた自分に適した瞑想を行うことは、あらゆることを自分で考え、自分の世界を創造することにもつながるはずである。
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