絵を描こうと思ったら、描く対象をよく観察しなければならない。
良い絵になるかどうかは観察力次第だ。
逆に言えば、絵を描くことは観察力の訓練になる。
たとえ心の中の想像を描くのだとしても、それが少女であれば、実際の少女をよく観察しないと絵にならない。
抽象画を描くような場合も、その元となる何かは鋭く観察しなければならない。
そして、本当に心の中のイメージだけを描く場合であれば、心を観察するという難しいことをしなければならない。
そのためには、まずは外界をよく観察して、観察力を極めて高度に高めておかなくてはならないのだ。
絵に関することは、詩や文章にも全くあてはまるだろう。
優れた詩や小説を読むと圧倒されることは、それがたとえ抒情詩(感情を描いた詩)や空想的な小説であっても、光景や物の描写が実に繊細で生き生きとしていることだ。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読むと、その不思議な列車の中の様子や、列車の窓から見える風景が具体的に細やかに描かれていて、それが実に美しい。
読んでいて、描写されていることの実際の様子が分からない場合もある。今では使われていない物や、自分が見たことのないものが描かれている場合や、あるいは、文章自体が(時には欠陥があるのかもしれないが)、よく理解できない場合である。
しかし、それでも、何かを賢明に描写しようとしていることが分かるし、それが作品にリズムを与えているのである。
ダンテの『神曲』では、ダンテは、(おそらく見たことのあるはずがない)地獄や天国の様子を事細かに描写して見せる。
イェイツはダンテを「ルネッサンス随一の想像力の持ち主」と言ったが、ダンテには天才的な観察力があったから、あのようなものが書けたのだ。
観察力がなければ、あれほど真に迫った想像は絶対にできない。
つまり、いかなる詩や小説を書く場合であろうと、作者は高度な観察力を持ち、その能力を発揮しなければならないのだ。
まして、ドキュメンタリーや叙事詩(出来事を描いた詩)であれば、描写が優れていなければ話にならず、そのためには高度な観察力を発揮しなければならない。
絵画や文学はもちろん、記録文書でも、最終的には、その良し悪しを決するのは表現力である。
だが、観察力がなければ、優れた表現はできない。
作家志望や画家志望の者がしばしばよく犯す間違いは、表現力にばかり心を向け、観察力の重要さに気が付いていないことだ。
美大などでは、最初、猛烈にデッサンをさせられるらしいが、その目的が、観察することより、デッサンのテクニックに偏ってしまっていれば、いくら厳しいデッサンの修行をしても良い画家にはなれない。
画家が書いた絵の描き方の本でも、著者の画家が、自分には普通の人よりはるかに高度な観察力があることを忘れていたり、そもそも最初から気付いていなかったりで、技術的なことを書くのに終始して、結局、読者の役に立たないものが多いのだ。
実際、世の中には、描くテクニックはかなりあっても、観察力がないので画家になれない人は多いのだと思う。
同じようなことが、詩や小説の分野でも言えるのだと思う。
画家や作家になりたいければ、優れた推理小説(探偵小説)を読むと良いと思う。
そこには、探偵の繊細で粘り強い、集中された観察に関してよく描かれているからであり、その重要性に気付くと思うからである。
そして、観察力の大切さが分かれば、それを磨かなくてはならない。
つまり、作家、詩人、画家、その他の芸術家になるには、研ぎ澄まされた観察力がなくてはならない。
そして、実際は、作家や画家に関わらず、何をするにも、観察ほど大切なことはない。
作家や画家、そして、推理小説の中の探偵は、観察力がなければ全く成り立たないという意味において、いかなることをする場合でも重要な参考になり、貴重な示唆を与えてくれるのである。
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良い絵になるかどうかは観察力次第だ。
逆に言えば、絵を描くことは観察力の訓練になる。
たとえ心の中の想像を描くのだとしても、それが少女であれば、実際の少女をよく観察しないと絵にならない。
抽象画を描くような場合も、その元となる何かは鋭く観察しなければならない。
そして、本当に心の中のイメージだけを描く場合であれば、心を観察するという難しいことをしなければならない。
そのためには、まずは外界をよく観察して、観察力を極めて高度に高めておかなくてはならないのだ。
絵に関することは、詩や文章にも全くあてはまるだろう。
優れた詩や小説を読むと圧倒されることは、それがたとえ抒情詩(感情を描いた詩)や空想的な小説であっても、光景や物の描写が実に繊細で生き生きとしていることだ。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読むと、その不思議な列車の中の様子や、列車の窓から見える風景が具体的に細やかに描かれていて、それが実に美しい。
読んでいて、描写されていることの実際の様子が分からない場合もある。今では使われていない物や、自分が見たことのないものが描かれている場合や、あるいは、文章自体が(時には欠陥があるのかもしれないが)、よく理解できない場合である。
しかし、それでも、何かを賢明に描写しようとしていることが分かるし、それが作品にリズムを与えているのである。
ダンテの『神曲』では、ダンテは、(おそらく見たことのあるはずがない)地獄や天国の様子を事細かに描写して見せる。
イェイツはダンテを「ルネッサンス随一の想像力の持ち主」と言ったが、ダンテには天才的な観察力があったから、あのようなものが書けたのだ。
観察力がなければ、あれほど真に迫った想像は絶対にできない。
つまり、いかなる詩や小説を書く場合であろうと、作者は高度な観察力を持ち、その能力を発揮しなければならないのだ。
まして、ドキュメンタリーや叙事詩(出来事を描いた詩)であれば、描写が優れていなければ話にならず、そのためには高度な観察力を発揮しなければならない。
絵画や文学はもちろん、記録文書でも、最終的には、その良し悪しを決するのは表現力である。
だが、観察力がなければ、優れた表現はできない。
作家志望や画家志望の者がしばしばよく犯す間違いは、表現力にばかり心を向け、観察力の重要さに気が付いていないことだ。
美大などでは、最初、猛烈にデッサンをさせられるらしいが、その目的が、観察することより、デッサンのテクニックに偏ってしまっていれば、いくら厳しいデッサンの修行をしても良い画家にはなれない。
画家が書いた絵の描き方の本でも、著者の画家が、自分には普通の人よりはるかに高度な観察力があることを忘れていたり、そもそも最初から気付いていなかったりで、技術的なことを書くのに終始して、結局、読者の役に立たないものが多いのだ。
実際、世の中には、描くテクニックはかなりあっても、観察力がないので画家になれない人は多いのだと思う。
同じようなことが、詩や小説の分野でも言えるのだと思う。
画家や作家になりたいければ、優れた推理小説(探偵小説)を読むと良いと思う。
そこには、探偵の繊細で粘り強い、集中された観察に関してよく描かれているからであり、その重要性に気付くと思うからである。
そして、観察力の大切さが分かれば、それを磨かなくてはならない。
つまり、作家、詩人、画家、その他の芸術家になるには、研ぎ澄まされた観察力がなくてはならない。
そして、実際は、作家や画家に関わらず、何をするにも、観察ほど大切なことはない。
作家や画家、そして、推理小説の中の探偵は、観察力がなければ全く成り立たないという意味において、いかなることをする場合でも重要な参考になり、貴重な示唆を与えてくれるのである。
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おはようございます。
いつも気付きを与えてくださる記事
ありがとうございます。
観察力=無執着のようです。
そして全ての物には意識がありそれとお話するこが大切です。
意識と意識で会話するのです。
一つの物に囚われると他の物が全く解らなくなります。
名称と形態に囚われると、ありのままを見ることができなくなります。
中国の太極拳の達人は眼法と言って
自分の周りの物事を囚われのない心で見渡します。右と左を中心でみるように、10メートル先と手前を同時に見るように。
そして、大自然や草花や昆虫に話かけて会話をすると相手のことが良くわかります。
神様を求めて、神様を全ての拠り所とすることにより自分のような者でも、なんとなく気付きが多くなりました。
神様を知ることにより、人は本当の人間になれるのですね。