誰もが知っているお話というものがあるが、あなたは、そのお話の世間的解釈を叩き込まれてしまっている。
そんな、あまりに普通に知られているお話を通して、あなたは世間に洗脳されたのだ。

ディケンズの『クリスマス・キャロル』はどうだろう。
守銭奴のスクルージは、クリスマスの精霊によって、自分の惨めな死を見せられて悔い改めた・・・というお話だと思ってる人が大半と思う。
アンデルセンの『マッチ売りの少女』は、誰からも見捨てられた不幸な幼い女の子が、最後に幸福な白昼夢と共に死ぬお話だということになっていると思う。
ウィーダの『フランダースの犬』は、才能を誰からも認められなかった天才少年ネロが、最後にルーベンスの絵を見ながら、老いた愛犬パトラッシュと一緒に幸福な気持ちで死ぬ感涙もののお話と思われているのだろう。

何とも馬鹿げたことだ。
優れた小説は(あらゆる優れた創作物が全てそうであるが)、ソクラテスも言ったように、作者そのものが書いたのではなく、創作者を通して神性の輝きが現れたものなのである。
神のメッセージを、もっとちゃんと受け取らなくてはならない。

上に挙げた、『クリスマス・キャロル』、『マッチ売りの少女』、『フランダースの犬』は、全て、主人公である人間が死んでいる。
それは世間の中の自分の死だ。
世間である金だけを信じたスクルージ、大晦日はパーティーをするものだと思い込んでいた貧しい女の子、世間に認められることにしか関心がなかったネロ。
そんなものは終わらせてしまえ。
そして、新しい自分を生きなさい。
そんなお話なのだ。
物語の主人公達の死を通して、自分の死を知り、世間に対して死にきって、新しい自分として生きるのである。

初音ミクのオペラ『THE END』で、ミクは、自分も普通に死ぬということを知り、その日を境目として全てが変わってしまう。

そういうことが全部変わって
それはあの日が全部境目で
あの日の朝が
えっと境目で
今のわたしは
だからすごくもう気になるし
~オペラ『THE END』第4幕『死のアリア』より~

あなたも、世間に対して死に、世間という幻想に生きるのをやめ、新しい自分を生きなければならない。
世間の幻想の中で生きているだけだと、虚しいとすら思わない。
ただ、エネルギーが枯渇し、虚無の中で息をしているだけだ。
我々はまだ始まってすらいない。
そのまま年老いていつか死ぬなんて、なんと惨めなことだろうか?
息を止めると、異常に記憶力が高まる。
しかし、それは本当は、記憶力が高まるのではなく、既に知っていることにアクセスしているだけなのだ。
呼吸を止め、額や胸に意識を集めると死を体験する。
その後で、これまでの自分をなるべく捨て去り、新しい自分になっていくことだ。
幻想を打ち壊し、神になって生きることができるのである。









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