人間は、自我が消えて無になった時、偉大な知恵が出たり、奇跡としか言えないようなことを起こす。

自我が消える1つの形として、精神的に強い衝撃を受けながら、意識は眠らずに・・・つまり失神せずに持ちこたえた時がある。
極端な話としては、実話ではないが、芥川龍之介の『地獄変』に登場する、変人奇人だが天才絵師だった良秀のような場合で、彼が唯一溺愛する15歳ほどの娘を、生きたまま焼き殺されるのを、自分が狂乱するのを拒否して凝視し続けた時に、意識は澄み渡り、何かを確かに見たのだろう。
しかし、良秀はあまりに自我が歪んでいたので、その後は生きていけないに違いない。
もっと穏か・・・とは言えないが、実例として、幼いわが子が三階の窓から転落するのを見て、サンダル履きのままオリンピックの短距離金メダリスト以上の疾走で落下地点にたどり着いて救った主婦の話や、また、火事が起こった時、屈強な男でも動かせないようなタンスをか弱い老女が1人で運び出したものなどがある。

イギリスの著名な作家コリン・ウィルソンは19歳の時に自殺を決意し、青酸カリを口に含もうとしたまさにその時に何かが起こり、心が澄み切り・・・おそらく自己が拡大したのだろう。自殺は中止となり、あまり立派とは言えないかもしれない自我が戻った後も、叡智はあまり遠くまでは去らず、おそらく生きてる間中、電波の悪い携帯電話を通してのようではあっても話し続けることができるのだろうと思う。
彼の場合、先に挙げた例とは異なり、そのように、効果が長く持続していることが非常に特殊である。
だから彼は世界的な作家になれたのである。

それらより、もっと良い状態で自我を希薄にできた人が、極めて僅かだろうがいるが、その場合を悟りと言うのかもしれない。
それは、心からの願いが叶って自我が満足して地上を離れるようなものである。
ただ、この場合は、雑多な欲望のほとんど全てを克服していることが条件で、長い長い修行を経てとか、やはり、長い長い闘病生活などの苦難を耐えた者にのみ与えられる特権に違いない。
普通の人は、どんな贅沢な望みが叶ったところで満足せず、欲望はますます大きくなるだけだからだ。

以上、人間が神的な境地に接近、あるいは、到達する3つの場合を述べたが、まとめてみると、
(1)偶発的な危機の中で意識を保った場合
(2)自らの意志で危機に近付く中で冷静であった場合
(3)あらゆる欲望を捨てた後で最上の望みが叶えられた場合
である。
もちろん、いずれも様々なバリエーションがあるので、やや雰囲気が異なる場合もあると考えられるが、いずれかに近いのだと思う。
そして、どのパターンの場合も、道元の言った「仏道とは自己を忘れることである」を実現したということなのだろう。
この中で、(1)や(3)は、人間からすれば偶発的な要素を多分に含むので、目標にすることはできない。
興味深いのは、コリン・ウィルソンにように、自ら命を絶とうとした刹那に、肉体生命より先に自我が消えていった場合だ。
これは、彼が不本意で憂鬱な生活を耐え続けながら、膨大な超一級の文学作品を読み続けていたことの影響が圧倒的に大きいに違いない。

それでいえば、我が国の学生やサラリーマンは、ほとんど皆、ウィルソンのように「不本意で憂鬱」なのだから、誰でも同じようになれる可能性がある。
だからむしろ、成功した起業家や、あるいは、スポーツやロックや芸術分野のスターような卓越した人物でない、平凡な人間である方が良いのかもしれない。
しかし、ほとんどの人は、ウィルソンのように理想を持ち続けずに、低レベルのつまらない娯楽や快楽に逃避してしまうのだ。
ウィルソンは、曲がりなりにも、優れた人間(決して地位の高い偉い人間という意味ではない)になることを望み、毎日、文豪の作品を読み、天才の音楽を聴き続けたのだ。
これで分かると思う。
グルメやレジャーといったつまらないもので自我を喜ばせるようなことを勇敢に拒否し、「全然良いこともない状況」をなんとか耐え続け、高貴なものを愛し、理想を捨てないことだ。その戦いはいつかは報われる。









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