ロボット小説、ロボット映画、ロボットアニメといったものに、それが単に空想的だからというだけではない「うそ臭さ」を感じていた人も多いと思う。
そして、「なぜ、それらがうそ臭いのか?」「どうすればうそ臭くなくなるのか?」といったことが重要な意味を持つ時代であるのだと思う。

人間の生命は自然によって与えられたものであり、人間は自然の一部だ。
その意味では、全ての人間は等しい。
しかし、個々の人間について言うなら、人間の中心は頭脳であり、それは、個々に異なるものである。
同じように、個々のロボットの中心はコンピューターであり、プログラムが異なるコンピューターが個々に異なるように、ロボットも個々に異なることになる。

『ターミネーター2』は素晴らしい作品だ。
通常の機械装置で作られたT101型ターミネーター・・・つまり、シュワちゃん型ターミネーターは、初めは純粋に合理的なだけで、邪魔な人間には危害を加えたり、不都合がないなら、目的のためには殺してしまうことも躊躇なく行った。
しかし、ジョンに「殺してはいけない」と説得されて、殺人を避けるようになり、最後には、「人間がなぜ泣くのか分かった」と言う。
映画の制作者は理解していなかったかもしれないが、これは、ジョンがシュワちゃん型ターミネーターをプログラミングしたということなのだ。

ロボット物語の元祖的な小説作品に、アイザック・アシモフの1950年の『われはロボット(アイロボット)』がある。
『われはロボット』は、1つのお話ではなく、いくつかの短編から構成されているが、その中で最も有名なものは、第1話の『ロビィ』である。
あまりに人気があったので、その後、アメリカでは、「ロビィ」がロボットの代名詞のようなものになり、SF映画の傑作『禁断の惑星』や、SFテレビドラマ『宇宙家族ロビンソン』で、どちらが真似したかは知らないが、実によく似たロビィという名のロボットが登場する。

そして、実際、『われはロボット』のロビィのお話は素晴らしいのだ。
その内容を簡単に紹介する。
8歳の幼い少女グローリアは、生まれた時から、家庭用ロボットのロビィに世話をされて育った。
グローリアにとって、ロビィは、誠実な乳母のようであり、親しい友のようであった。
グローリアは、ロビィのサービスを受けるだけでなく、共に遊び、聞き覚えたお話をロビィに話して聞かせ、また、ロビィはそのお話を黙って聞くだけでなく、繰り返し聞かせてくれるようグローリアにねだったりもした。
グローリアが機嫌を損ねてすねると、ロビィは慌ててグローリアの機嫌を取ることもあった。
グローリアはロビィを愛しており、また、ロビィも、少なくとも、その行動においては、実の親のようにグローリアを愛していた。
だが、ロビィのようなロボットに心はなく、プログラムされた通りに動いていることは、この物語を語るロボット製造会社の女社長によって、最初に述べられていた。
グローリアとロビィの平和な日々が続いていたが、グローリアの母親はあまりロビィが好きではなかったし、グローリアがロボットを過度に愛し、この一体のロボットに依存することを良くないことだと考えた。それは、必ずしも論理的にではなく、多分に感情的な面もあったと思う(グローリアは母親よりロビィが好きなのだとも感じられた)。
それで、ある日、グローリアが学校に行っている間に、母親はロビィを売り渡してしまう。
グローリアは悲しんだが、母親は、時が解決すると楽観していた。
しかし、グローリアの心の傷は大きく、グローリアはいつまでもロビィを求め、その精神には危うさがあるように思われた。
ある日、グローリアの父親は、グローリアの気晴らしのためにと、グローリアを工場見学に連れ出す。
だが、その工場で事故が起こり、グローリアに危機が迫る。
その時、一体のロボットが飛び出して来て、障害物を不器用にも果敢に乗り越えてグローリアの元に駆け寄り、身を挺してグローリアを守った。
そのロボットは、余生を作業用ロボットとして送っていたロビィだった。

こういった話を、ほとんどの読者は、良いお話だとは思っても、一方で、現代人の知性にかけて、感傷的なメルヘン(空想物語)とみなすことだろう。
ところが、この小説で、先ほど述べた、ロビィ達ロボットを製造する会社の女性社長の口から、ロボット達には「自分には理解し難い不思議なこと」が確かにあるのだという言葉が出るのである。
アシモフは、コンピューターには詳しくないかもしれないが、生化学者(博士)として、コンピュータープログラミングに通じる生命の営みを直観していたのだと思う。
つまり、こういうことだ。
ロビィ達、電子頭脳を備えたロボットは、グローリアらユーザーによってプログラミングされ、変化するのである。
本格的なコンピューターというものは、単純なコンピューターチップを組み込まれた電子レンジや洗濯機のように、一番最初のプログラム通りに機能するだけではないのである。
そこを誤解するから、コンピューターを使った子供の教育を否定的に考える人達が多いのだと思う。
そうではなく、子供達が、自分でコンピューターをプログラムしてこそ、望ましい教育効果が現れるのである。
そして、今や、子供達が楽々と、本来持っているはずの高度な能力を引き出すために、コンピューターが役に立つ準備が整っているのである。
それは、これまでの人類が負っていた、自然環境による障壁や、作られてしまった民族的、文化的な悪慣習や偏見、その他、様々な障害によって、人間が釈迦やイエスのレベルに達することを妨げていたものが、コンピューターを賢く利用することで克服できるかもしれないのである。
まずは、大人が、そういったことを理解しなければならないのではないかと思う。









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