クリスマスパーティーの最後には、袋に入った色の付いた玉を投げあう・・・そんな話は聞いたことがないと思うが、今朝の夢の中で、私はそれが、我々の慣習なのだと信じていた。
ただし、参加したくないと思っていた。
仮に夢の中でマインドコントロールされているとしても、世間の慣習などまっぴら御免と言うわけだ。
なぜなら、それがもし大切なことだとしても、世間の慣習になれば、歪んだものになってしまうからだ。
ところで、私が夢の中で見た玉には2つの色があった。
ピンクに近い赤とシルバーだ。
だが、ピカピカ光るシルバーの玉の中に1つ、くすんで見えるものがあった。
誰も欲しがらないシルバーだ。
しかし、私がそれに近寄って見てみたら、実に美しいのである。
シルバーは理屈(論理)で、ピンクは感情を表していたのだろう。
人間は、理屈だけでは駄目だし、かといって感情だけでも駄目なのだ。
最近、医学者や科学者の書いた本をよく読んでいるのだが、どれも全て理屈ばかり書かれている。
そして、著者達は、理屈が正しいのならそれは正しいのだと信じているらしいことを感じるのである。
炭水化物を食べるのは絶対に悪いという医学者も、いや、炭水化物は絶対に食べないといけないという医学者も、共に理屈は正しいのだ。
しかし、彼等は自説に固執している。
だがそれは、百年も前の古い科学の考え方だ。
とはいえ、アインシュタインでさえ、「理屈が正しければ正しい」という西洋的な思想の影響を強く受けていて、アインシュタイン自身、それで悩んでいたようだ。
真実をいえば、数学でさえ、理屈というのは半分で、数学者が感情的に納得しなければ、数学は成立しないらしい。
世界屈指の数学者であった岡潔が、そう何度も述べられていたようだ。
もちろん、理屈の中には、ピカピカに見えても安っぽいものもあるし、感情も、淡いピンクのようなものも、真っ赤な激しいものもある。
理屈なら何でも良く、感情なら何でも良いわけではない。
最初に述べた、「袋に入った玉を投げあう」慣習はクリスマスにはないが、玉を投げるのなら、節分の豆まきがある。
「鬼は外、福は内」と言いながら、豆(大豆?)を投げるというものだ。
それは、鬼に見える外の敵に向かって、理屈の豆や感情の豆を投げて攻撃しているように感じる。
だが、慎ましさを忘れない理屈の玉と、柔らかい感情の玉を投げ合えば、本当は、鬼はどこにもいないことが分かる。
クリスマスにシルバーの理屈の玉と、ピンクの感情の玉を投げあう・・・かつての人類が持っていた慣習だったが、どちから片方の玉を投げるようになって、それが攻撃的になっていき、それで滅んでしまったのだ。
節分の豆まきはその名残なのかもしれない。
真実は理屈だけでは分からない。
感情的、情緒的に納得しない限り真実ではない。
現在の人類は、それが理解できるほどに進歩したはずなのだ。
しかし、多くの人達が自分の理屈や感情に固執するので、今回もまた滅ぶ運命にあるのである。
昔は、科学者は偉い人で、人々に尊敬されていた。
磨きぬいた理屈だけでなく、感情的にも優れた科学者が多かったからだ。
しかし、理屈ばかりこねて、それで正しいと信じ込んでいる科学者は安っぽいものである。
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仮に夢の中でマインドコントロールされているとしても、世間の慣習などまっぴら御免と言うわけだ。
なぜなら、それがもし大切なことだとしても、世間の慣習になれば、歪んだものになってしまうからだ。
ところで、私が夢の中で見た玉には2つの色があった。
ピンクに近い赤とシルバーだ。
だが、ピカピカ光るシルバーの玉の中に1つ、くすんで見えるものがあった。
誰も欲しがらないシルバーだ。
しかし、私がそれに近寄って見てみたら、実に美しいのである。
シルバーは理屈(論理)で、ピンクは感情を表していたのだろう。
人間は、理屈だけでは駄目だし、かといって感情だけでも駄目なのだ。
最近、医学者や科学者の書いた本をよく読んでいるのだが、どれも全て理屈ばかり書かれている。
そして、著者達は、理屈が正しいのならそれは正しいのだと信じているらしいことを感じるのである。
炭水化物を食べるのは絶対に悪いという医学者も、いや、炭水化物は絶対に食べないといけないという医学者も、共に理屈は正しいのだ。
しかし、彼等は自説に固執している。
だがそれは、百年も前の古い科学の考え方だ。
とはいえ、アインシュタインでさえ、「理屈が正しければ正しい」という西洋的な思想の影響を強く受けていて、アインシュタイン自身、それで悩んでいたようだ。
真実をいえば、数学でさえ、理屈というのは半分で、数学者が感情的に納得しなければ、数学は成立しないらしい。
世界屈指の数学者であった岡潔が、そう何度も述べられていたようだ。
もちろん、理屈の中には、ピカピカに見えても安っぽいものもあるし、感情も、淡いピンクのようなものも、真っ赤な激しいものもある。
理屈なら何でも良く、感情なら何でも良いわけではない。
最初に述べた、「袋に入った玉を投げあう」慣習はクリスマスにはないが、玉を投げるのなら、節分の豆まきがある。
「鬼は外、福は内」と言いながら、豆(大豆?)を投げるというものだ。
それは、鬼に見える外の敵に向かって、理屈の豆や感情の豆を投げて攻撃しているように感じる。
だが、慎ましさを忘れない理屈の玉と、柔らかい感情の玉を投げ合えば、本当は、鬼はどこにもいないことが分かる。
クリスマスにシルバーの理屈の玉と、ピンクの感情の玉を投げあう・・・かつての人類が持っていた慣習だったが、どちから片方の玉を投げるようになって、それが攻撃的になっていき、それで滅んでしまったのだ。
節分の豆まきはその名残なのかもしれない。
真実は理屈だけでは分からない。
感情的、情緒的に納得しない限り真実ではない。
現在の人類は、それが理解できるほどに進歩したはずなのだ。
しかし、多くの人達が自分の理屈や感情に固執するので、今回もまた滅ぶ運命にあるのである。
昔は、科学者は偉い人で、人々に尊敬されていた。
磨きぬいた理屈だけでなく、感情的にも優れた科学者が多かったからだ。
しかし、理屈ばかりこねて、それで正しいと信じ込んでいる科学者は安っぽいものである。
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単なる健康法と言うだけでなく、やってると心理的に落ち着くと言う側面もあると思います。
そこには阿弥陀如来の話や、kayさんの信念力など「気」の力が加わって、ただの健康法ではなく
宗教的なパワーが加味されたものにランクアップされたからかもしれません