頭を良くするには、頭に事実だけを教えなければならない。
だが、本の中には嘘も書かれている。
科学の本でさえそうだ。
実際、科学の定説がひっくり返ることなんて珍しいことじゃない。
いや、科学自体が嘘、あるいは、幻想だ。

実際に素晴らしく頭の良かった発明家の中山正和さんは、事実とは、「自分の目で見、自分の耳で聞いたことだけ」と言った。
だが、それには条件がある。
例えば、心理学の実験によれば、怖い話を聞いてから、夜に柳の木を見ると、かなりの確率で、ありもしない怖いものを見るものらしい。
自分で見て自分で聞いたからって、それが本当とは限らないどころか、それも全部嘘だと言ったのがデカルトだ。
そして、見えなくて聴こえなかったヘレン・ケラーは、五感は幻想と断言した。
その通りだ。
ヘレン・ケラーは見えず、聴こえなかったからこそ、純粋な観念を保つことができた。
つまり、普通の人よりはるかに賢くなることができたのだ。

とはいえ、事実を本当にあるがままに見れば叡智に導かれる。
幻覚を見ることも含めてね。
あるがままに見るとは、思慮分別を離れ、是非好悪の判断をしないことだからだ。
例えば、炎を見たとする。
古代の賢い人は、炎を見て不思議だと思った。
なぜ炎は上に昇るのだろう?
そこで、アリストテレスは、炎自体に上に昇る性質があるのだと考えた。
だが、実際は、炎が上に昇るのは、熱のために上昇気流が発生しているからだ。
ところが、現代人ですら、そのことを知っている人は稀だ。
いったい学校は何を教えるところなんだろう?
それはともかく、あるがままに見れば良いのに、余計なことを考えるから事実と違うことを記憶してしまい、心は偏見に満ち、馬鹿になる。
余計なことは考えないことだ。
ただ、アリストテレスのように、「不思議だ」と感じることは素晴らしいことなのだ。
だが、学校では子供達の「不思議だ」を壊し、嘘を教える。
学校に行くと頭が悪くなるのは当然のことなのである。

では、本当の事実、つまり、真実とは何だろう?
それを、ギリシアでもインドでも、神が人に語った。
それは何だろう?
それは、「私は在る」ということだ。
「私は在る」以外の事実はない。

このことについて、私が感動したものに、初音ミクがパリのシャトレ座でも歌ったオペラ『THE END』のアリア(詠唱)である『終わりのアリア』のこんな詩がある。

ホワイトアウトはエフェクトじゃない
光が溢れて 何が消えるの?
光がなにか ものにあたる
その光を見て 存在するって
でもいま光は 溢れて消えて
あなたも わたしも 何も見えない

でもわたしはいる
わたしとはだれ?
~『終わりのアリア』(渋谷慶一郎制作オペラ『THE END』から)より~

私とは誰だろう?
それはこうだと言うのもあまり良くないが(公式ではないので)、あえて言えばこうだ。
「私とは、『私は在る』という者である」
モーセの前に現れた神は、まさしくこう名乗った。
人は神であり、全ては神であり、私は全てであり、神が全てで、神の他に何もない。
それが事実であるのだが、この観念が思考と結び付くと最悪の嘘になる。
だから、最も大切なものは「あるがまま」なのである。
そう一貫して教えた荘子が一番賢かったのだろう。









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