尊い教えを残した聖者は沢山いるが、彼らの教えはどれも難しい。
この難しいというのは、難解という意味ではなく、彼らの言った言葉の微妙なニュアンスを捉えることが、彼らが既にいない今となっては難しいのだ。
ラマナ・マハルシは、神になるには、「私は誰か?」と問えと言ったが、あるところで彼は、「私は誰か?」を呪文のように繰り返してはいけないと言う。
また、「私は誰か?」を問うにはまだ早過ぎる人もいるという。
そうなると、我々は途方に暮れてしまう。
さらに、ラメッシ・バルセカールによれば、マハルシの使ったタミル語のことを考えれば、マハルシの「私は誰か?」は、「自分とは何か?」という意味に近いと言う。
いや、その「『自分とは何か?』に近い」という言葉自体が、本当はどういう意味かといった問題もある。
つまり、「私は誰か?」という意味の解明自体が、博士論文並の研究が必要なのかもしれないと思うと、気楽に「さあ、やっていよう」というものでもないように思える。
だが、私は、ニサルガダッタ・マハラジの「常に、『私は在る』という感覚にしがみつきなさい」という教えに、直感的に心を惹かれた。
ここでも確かに、「在る」のは、身体なのか心なのかという定義すら示されていなかった。
しかし、身体でないのは確かであろう。
そして、心でもない。
それが心であるなら、欲望や、恨みという心の働きをもって、「私は在る」になってしまう。
だから、「在る」のは、心の表面的な現れである心の働きではなく、心の中核のようなもの・・・魂や霊のようなものであると思う。
これに関しては、昔、デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と言ってくれたことが大いに参考になる。
ところで、デカルトのこの言葉に対し、「『我歩く、ゆえに我あり』でいいじゃないか?」と言った学者だっていたのだ。
しかし、そうじゃなく、デカルトが問い詰めたのは、「確かに存在する」という、「決して疑うことのできない、果てしなく明晰なもの」なのだ。
「我歩く」と言ったって、本当に歩いているかどうかは分からないのだ。
夢の中で歩いているのかもしれない。
他にも、何らかの意味で、自分が歩いていると誤解しているのかもしれない。
自分が「歩いている」ことを疑うことなど、いくらでもできる。
その疑いは、どうしたって、絶対に晴らせない。
しかし、「疑っている(思っている)我」だけは、疑いようもなく存在する。だから、「我思う、ゆえに我あり」なのだ。
デカルトは、彼なりに、自分の存在の中核を突き止めた。
それなのに、傲慢にも気楽に、「我思う、ゆえに我あり」を否定することを認める訳にはいかない。
疑わせる何か、思いを生み出す何かは、確かに存在する。
それが「我」なのだと思う。
その感覚にしがみつくのは難しくはない。
その感覚に注意すれば、自分は果てなく広がっていく。
岡本太郎の「爆発」のようなものかもしれない。
ところで、ニサルガダッタ・マハラジは、「在るという感覚」は、朝、眠りから覚めて、思考がやってくるまでの間の感覚だと言う。
これに関し、『アラビアのロレンス』で知られる、トーマス・エドワード・ロレンスが、『知恵の七柱』という書で、自分が神の国に参入する体験を描いているのが、まさに、この「在る」感覚だ。
ロレンスが、そのような神秘の世界に行くのは、砂漠の朝だった。
どういう訳か、眠りからは確かに目覚めているのに、思考が頭に戻ってこない朝があるものだが、そんな時、見慣れた砂漠が神秘の世界、神の王国に変わっているのだ。
いや、本当は砂漠だけじゃない。
いやいや、砂漠だけじゃないどころではない。
そんな時は、神の王国、楽園でないものなど何もない。
そこいらに楽園の乙女が微笑んでいる。
H.G.ウェルズの『堀についたドア』で、あの超エリート政治家が、幼い時に一度だけ訪れ、再びそこに行くことを憧れ続けた、その「堀についたドア」の向こうの世界は、何のことはない、どこにでもあるのだ。
あの時に優しい眼差しを向けてくれた楽園の乙女もどこにだっているのだ。
「私は在る」という感覚さえ大切にすれば、神の王国は、楽園の乙女はいつでもあなたのものなのだ。
尚、『知恵の七柱』は膨大な書物なのだが、上に述べた部分は、コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』に引用されているのを見ても良いと思う。
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この難しいというのは、難解という意味ではなく、彼らの言った言葉の微妙なニュアンスを捉えることが、彼らが既にいない今となっては難しいのだ。
ラマナ・マハルシは、神になるには、「私は誰か?」と問えと言ったが、あるところで彼は、「私は誰か?」を呪文のように繰り返してはいけないと言う。
また、「私は誰か?」を問うにはまだ早過ぎる人もいるという。
そうなると、我々は途方に暮れてしまう。
さらに、ラメッシ・バルセカールによれば、マハルシの使ったタミル語のことを考えれば、マハルシの「私は誰か?」は、「自分とは何か?」という意味に近いと言う。
いや、その「『自分とは何か?』に近い」という言葉自体が、本当はどういう意味かといった問題もある。
つまり、「私は誰か?」という意味の解明自体が、博士論文並の研究が必要なのかもしれないと思うと、気楽に「さあ、やっていよう」というものでもないように思える。
だが、私は、ニサルガダッタ・マハラジの「常に、『私は在る』という感覚にしがみつきなさい」という教えに、直感的に心を惹かれた。
ここでも確かに、「在る」のは、身体なのか心なのかという定義すら示されていなかった。
しかし、身体でないのは確かであろう。
そして、心でもない。
それが心であるなら、欲望や、恨みという心の働きをもって、「私は在る」になってしまう。
だから、「在る」のは、心の表面的な現れである心の働きではなく、心の中核のようなもの・・・魂や霊のようなものであると思う。
これに関しては、昔、デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と言ってくれたことが大いに参考になる。
ところで、デカルトのこの言葉に対し、「『我歩く、ゆえに我あり』でいいじゃないか?」と言った学者だっていたのだ。
しかし、そうじゃなく、デカルトが問い詰めたのは、「確かに存在する」という、「決して疑うことのできない、果てしなく明晰なもの」なのだ。
「我歩く」と言ったって、本当に歩いているかどうかは分からないのだ。
夢の中で歩いているのかもしれない。
他にも、何らかの意味で、自分が歩いていると誤解しているのかもしれない。
自分が「歩いている」ことを疑うことなど、いくらでもできる。
その疑いは、どうしたって、絶対に晴らせない。
しかし、「疑っている(思っている)我」だけは、疑いようもなく存在する。だから、「我思う、ゆえに我あり」なのだ。
デカルトは、彼なりに、自分の存在の中核を突き止めた。
それなのに、傲慢にも気楽に、「我思う、ゆえに我あり」を否定することを認める訳にはいかない。
疑わせる何か、思いを生み出す何かは、確かに存在する。
それが「我」なのだと思う。
その感覚にしがみつくのは難しくはない。
その感覚に注意すれば、自分は果てなく広がっていく。
岡本太郎の「爆発」のようなものかもしれない。
ところで、ニサルガダッタ・マハラジは、「在るという感覚」は、朝、眠りから覚めて、思考がやってくるまでの間の感覚だと言う。
これに関し、『アラビアのロレンス』で知られる、トーマス・エドワード・ロレンスが、『知恵の七柱』という書で、自分が神の国に参入する体験を描いているのが、まさに、この「在る」感覚だ。
ロレンスが、そのような神秘の世界に行くのは、砂漠の朝だった。
どういう訳か、眠りからは確かに目覚めているのに、思考が頭に戻ってこない朝があるものだが、そんな時、見慣れた砂漠が神秘の世界、神の王国に変わっているのだ。
いや、本当は砂漠だけじゃない。
いやいや、砂漠だけじゃないどころではない。
そんな時は、神の王国、楽園でないものなど何もない。
そこいらに楽園の乙女が微笑んでいる。
H.G.ウェルズの『堀についたドア』で、あの超エリート政治家が、幼い時に一度だけ訪れ、再びそこに行くことを憧れ続けた、その「堀についたドア」の向こうの世界は、何のことはない、どこにでもあるのだ。
あの時に優しい眼差しを向けてくれた楽園の乙女もどこにだっているのだ。
「私は在る」という感覚さえ大切にすれば、神の王国は、楽園の乙女はいつでもあなたのものなのだ。
尚、『知恵の七柱』は膨大な書物なのだが、上に述べた部分は、コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』に引用されているのを見ても良いと思う。
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