法然や親鸞の念仏の教えは素晴らしいものだ。
だが、宮沢賢治は、法華経の教えには震えるほどに感動したのだが、親鸞らの教えは受け付けなかった。
だが、彼の父は偉い人だったと思う。
賢治が、父に、家の宗教である浄土真宗から、法華経の教えである日蓮宗に改宗することを迫った時、父は、「どれも根本では同じなのだ」と言ったのだ。
その通りである。
これは何も、仏教の宗派だけのことではない。
確かに、敬虔なキリスト教徒に、「キリスト教も仏教もヒンズー教も全て同じなのだ」と言ったら、納得してもらえないかもしれない。
しかし、やはり同じなのだ。
私は、聖書の詩篇91を読んだ時や、ヒンズー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』を読んだ時、浄土門仏教の聖典である『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』のエッセンスであると思われる、法然の『選択本願念仏集』や、親鸞の教えを弟子の唯円が綴った『歎異抄』などと全く同じ世界観が流れ込んでくるのを感じたのだ。
そして、賢治の愛した『法華経』も全く変わらないのである。
また、ギリシャ神話の神々への信仰だって同じことだ。
それぞれに欠けたところがある訳ではないが、やはり、全て統一して受け入れることが好ましいと思う。

聖書の詩篇91に、「彼はわが名を知るゆえに、私は彼を守る」と神が言う。
また、詩篇23には、「(神は)み名のためにわたしを正しい道に導かれる」と言う。
しかし、神の名は明かされない。
だが、神はモーセにその名を明かしている。
それは、「私は『私はある』というものだ」である。
ギリシャ語の「エゴー・エイミー」、ラテン語の「エゴ・スム」、サンスクリット語の「アハン」に近いと思う。
英語では「I AM」、日本語では、「私は在る」だ。
我々だって、ただ、「私は在る」という感覚だけを持っている時、神であるかもしれないのである。
ニサルガダッタ・マハラジは、常に、「私は在る」という感覚にしがみ付いていなさいと教えた。
尚、「私は在る」という感覚とは、朝、目が覚めて、思考がやって来るまでの感覚である。
ずっとそれを忘れなければ、神と一体化する。
それを少しやってみただけでも、身体が軽くなるのを感じると思う。
エマーソンはこれを、「神の魂が私の魂の中に流れ込んでくる体験」と言い、それは決して忘れることのできないものだと言った。
「私は在る」だけが真実である。
それを体験によって了解したなら、神の他に何もないことが分かると思う。









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