人間にとって、最も罪悪であり、悲劇であって、恥ずべきことであるのは、考え方を押し付けることだ。
だが、人間というのは、自分の考え方を押し付けたがるものだ。
かつての日本や現在の北朝鮮では、国家規模でそれが露骨に行われていた、あるいは、行われているのだろうが、現在の日本やアメリカでも、見かけは控え目だが、相変わらず同じことが行われているし、それがないところは地球上にはない。
他人の考え方を強引に押し付けられた人間は、それに反発しても、今度は、自分の考え方をもっと強引に他人に押し付けるようになる。
悲劇は悲劇を生み、争いは争いを生み、洗脳は洗脳を引き起こす。
それを人類の歴史と言うのだろう。
私は、小さな子供の時から、親や教師が、あらゆる面で自分より上位にあるという考え方を押し付けられることに反発した。
たとえいかなる偉大な人間でも、個人としては、人間は自分とも誰とも平等だ。
自分より上位にあるのは神仏だけだし、その現象界の現れである大自然だけである。
神仏(ただし神仏の観念ではない)や自然を崇め平伏すのは構わないが、個人としての人間を決して崇拝してはならない。
また、試験で良い点を取ることが、本質的な理解より明らかに重視されている学校の考え方を決して受け入れるわけにはいかなかったが、日本の学校も北朝鮮と同じで、学校やその下僕である教師のいかなる思想も受け入れないと極めて酷い目に遭わされる。
また、学校の教師だって、国歌を歌い、国旗を拝礼しないといけないという、単なる1つの思想に基いた行為を拒否することはできない。
これは、誰が何と言おうと、思想の押し付けである。
ただ、教師というのは、思想の押し付けを受け入れることと引き換えに、安定した高収入なのであるから、嫌なら教師をやめるしかない。
私は、同じ会社に長く勤めている人と話すと、その人のものの考え方を異常に思うのだが、会社の中では、その人の考え方を是とする。
もちろん、個人的には納得してはいないが、私は自分の考え方を押し付ける気はないし、たとえそうしたところで何も良いことはないだろう。
特に、相手が社長なら、相手が何を言っても絶対に「イエス」である。
黒いカラスが飛んでいても、社長があれは白い鳩だと言うなら、それは白い鳩であることを認める。
お前は犬だと言うなら、私は犬である。
iPhoneがAndroidスマートフォンより優れていると言うなら、それは尤も(道理に適っている)である。
いや、相手が社長以外の誰であっても、そういうことにしておきたい。
彼らは私にとって無価値なのだからだ。
人間は誰でも、自分の考え方が正しいと思っている。
他人と言い争いをする時は、自分の考え方が、相手の考え方より必ず優れていると思っている。
しかし、それは絶対に妄想なのだ。
それを分かっている人を賢者と言う。
デカルトというのは本当に偉い人で、「単に正しいと思えるだけのことは全て間違いとして斥ける」ことを自分に課した。
こんなことを考え、実践できるのは賢者以外の何者でもない。
だからデカルトは多くの人に誤解されたし、誤解されている。
人間は自分より優れた人を誤解し、嫌う。
だから、誤解されて嫌われることだけが、自分の優秀さを示す唯一の証である。
では、本当に正しいこととは何か?
デカルトのように、単に正しいと思える程度のことは全て虚偽であるという態度に徹すると分かってくる。
それは、本当に正しいこととは、「疑いようもなく明白」なのだということだ。
絶対に疑うことができず、一点の曇りもなく魂の底から絶対的に正しいと感じることだ。
そんなものにいつか出会うためには、デカルトのような態度が必要である。
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だが、人間というのは、自分の考え方を押し付けたがるものだ。
かつての日本や現在の北朝鮮では、国家規模でそれが露骨に行われていた、あるいは、行われているのだろうが、現在の日本やアメリカでも、見かけは控え目だが、相変わらず同じことが行われているし、それがないところは地球上にはない。
他人の考え方を強引に押し付けられた人間は、それに反発しても、今度は、自分の考え方をもっと強引に他人に押し付けるようになる。
悲劇は悲劇を生み、争いは争いを生み、洗脳は洗脳を引き起こす。
それを人類の歴史と言うのだろう。
私は、小さな子供の時から、親や教師が、あらゆる面で自分より上位にあるという考え方を押し付けられることに反発した。
たとえいかなる偉大な人間でも、個人としては、人間は自分とも誰とも平等だ。
自分より上位にあるのは神仏だけだし、その現象界の現れである大自然だけである。
神仏(ただし神仏の観念ではない)や自然を崇め平伏すのは構わないが、個人としての人間を決して崇拝してはならない。
また、試験で良い点を取ることが、本質的な理解より明らかに重視されている学校の考え方を決して受け入れるわけにはいかなかったが、日本の学校も北朝鮮と同じで、学校やその下僕である教師のいかなる思想も受け入れないと極めて酷い目に遭わされる。
また、学校の教師だって、国歌を歌い、国旗を拝礼しないといけないという、単なる1つの思想に基いた行為を拒否することはできない。
これは、誰が何と言おうと、思想の押し付けである。
ただ、教師というのは、思想の押し付けを受け入れることと引き換えに、安定した高収入なのであるから、嫌なら教師をやめるしかない。
私は、同じ会社に長く勤めている人と話すと、その人のものの考え方を異常に思うのだが、会社の中では、その人の考え方を是とする。
もちろん、個人的には納得してはいないが、私は自分の考え方を押し付ける気はないし、たとえそうしたところで何も良いことはないだろう。
特に、相手が社長なら、相手が何を言っても絶対に「イエス」である。
黒いカラスが飛んでいても、社長があれは白い鳩だと言うなら、それは白い鳩であることを認める。
お前は犬だと言うなら、私は犬である。
iPhoneがAndroidスマートフォンより優れていると言うなら、それは尤も(道理に適っている)である。
いや、相手が社長以外の誰であっても、そういうことにしておきたい。
彼らは私にとって無価値なのだからだ。
人間は誰でも、自分の考え方が正しいと思っている。
他人と言い争いをする時は、自分の考え方が、相手の考え方より必ず優れていると思っている。
しかし、それは絶対に妄想なのだ。
それを分かっている人を賢者と言う。
デカルトというのは本当に偉い人で、「単に正しいと思えるだけのことは全て間違いとして斥ける」ことを自分に課した。
こんなことを考え、実践できるのは賢者以外の何者でもない。
だからデカルトは多くの人に誤解されたし、誤解されている。
人間は自分より優れた人を誤解し、嫌う。
だから、誤解されて嫌われることだけが、自分の優秀さを示す唯一の証である。
では、本当に正しいこととは何か?
デカルトのように、単に正しいと思える程度のことは全て虚偽であるという態度に徹すると分かってくる。
それは、本当に正しいこととは、「疑いようもなく明白」なのだということだ。
絶対に疑うことができず、一点の曇りもなく魂の底から絶対的に正しいと感じることだ。
そんなものにいつか出会うためには、デカルトのような態度が必要である。
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