「先生」と呼ばれることにすぐに慣れてしまえる人を羨ましいと思ったことがある。
私は滅多なことでそんな呼ばれ方をする訳ではないが、企業に技術指導に行ったり、そんな大袈裟なものではないが、講演やセミナーをすると、社長さんなどの立派な人達にまで先生と呼ばれることもある。
私はいつまでたってもそれを場違いとしか感じない。
そして、それは普通の感覚ではないだろうかと思う。
先生という言葉は、単に、知識、ノウハウを教える人、つまり、教師という意味と考えれば大したものではないのだが、やはりどこか、人間として上位にある人、優れた人という意味もあるのだと思う。
だが、私は、謙遜でも何でもなく、人に優るところは何もないし、どんな他人でも、私に劣るとは思えない。
これは確かに、自分を卑下しやすい性質として好ましくない部分もあるのかもしれないが、やはりそれが自然の感覚だと思うのである。
早い話が、私はどんな意味でも先生ではない。
ところで、本当に優れた人でありながら、先生と呼ばれることを辞退したり、そう呼ぶと、本当に、「私が先生であるはずがありません」という気持ちが態度や雰囲気にちゃんと表れる「まともな人」がいる。
人間的、また、知識や教養において非常に高度で、専門技能においては超人的と思えるような人でありながら、先生と呼ぶと、ひどく恐縮して、「私は先生なんかじゃありませんよ」と言う人を見たことがある。それによって、さらに、彼が優れた人だと確信させられるのである。
宋文洲さんがまだソフトブレーンの社長だった時、私が勤務している会社に来られたことがあった。
ところが、受付にいた女子社員が間違って、ミーティングルームの狭いテーブルに随行のお2人の方々と一緒に案内してしまった。それを知った私は慌てて飛んで行って、「宋先生、失礼しました。応接室にご案内します」と言うと、宋さんは少しも気を悪くされていない様子で、にこやかに笑いながらも、本当に少し困った様子で照れながら、「先生なんて呼ばないで下さい」と言われたのをよく憶えている。
宋さんは既に大事業家だったし工学博士でもあるのだから、どう見ても少しも偉くない私が先生と言ったところで少しも不自然ではない状況だった。
確かに、実際は先生と呼ばれることに違和感を持っている(立場上の)先生も少なくはないと思うが、それなら、上にあげた人達のように自分から辞退するのが良いと思う。
ただ、私の場合は、相手が言うことをうまく否定して辞退することもできない無能な者であるが、そんな人もまた他にもいるのかもしれないが。
イエスは、「私を先生と呼ぶのは正しい」と言い、自分が賢王として名高いソロモンに優ることを堂々と宣言していた。
だが、一方で、弟子達の足を洗い、子供が身近に寄ってくるのを決して止めなかった。
いかなる人物であれ、個人としては少しも偉くはない。
だから、たとえどんな成功者であっても、個人を崇拝するようなことを決してしてはならない。
だが、至高の存在は誰の内にもある。
人が個人であることをやめれば、即ち、小我が内なる大我に溶け込んで消えてしまえば、いかなる個人よりもはるかに優れている。
意外とすんなりと言えたような気がするが、そういうことであると思う。
「南無阿弥陀仏」という念仏は、阿弥陀如来という仏に南無する・・・つまり、帰依するということであり、帰依とは、相手を自分より圧倒的に優れた高位の存在と認めて平伏し、全て任せるという意味である。
そして、阿弥陀仏とは、元の言葉でアミターバ・・・無限の光明を持つ者、あるいは、アミターユス・・・無限の生命を持つ者という意味であり、即ち至高者である。
念仏を称える者がいかなる個人も及ばないことは当然であり、親鸞が、「念仏する者を、天の神も地の神も尊敬する」と言ったのはおかしなことではないと分かるのである。
そこには、驕るような個人(小我)は決して存在しない。
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私は滅多なことでそんな呼ばれ方をする訳ではないが、企業に技術指導に行ったり、そんな大袈裟なものではないが、講演やセミナーをすると、社長さんなどの立派な人達にまで先生と呼ばれることもある。
私はいつまでたってもそれを場違いとしか感じない。
そして、それは普通の感覚ではないだろうかと思う。
先生という言葉は、単に、知識、ノウハウを教える人、つまり、教師という意味と考えれば大したものではないのだが、やはりどこか、人間として上位にある人、優れた人という意味もあるのだと思う。
だが、私は、謙遜でも何でもなく、人に優るところは何もないし、どんな他人でも、私に劣るとは思えない。
これは確かに、自分を卑下しやすい性質として好ましくない部分もあるのかもしれないが、やはりそれが自然の感覚だと思うのである。
早い話が、私はどんな意味でも先生ではない。
ところで、本当に優れた人でありながら、先生と呼ばれることを辞退したり、そう呼ぶと、本当に、「私が先生であるはずがありません」という気持ちが態度や雰囲気にちゃんと表れる「まともな人」がいる。
人間的、また、知識や教養において非常に高度で、専門技能においては超人的と思えるような人でありながら、先生と呼ぶと、ひどく恐縮して、「私は先生なんかじゃありませんよ」と言う人を見たことがある。それによって、さらに、彼が優れた人だと確信させられるのである。
宋文洲さんがまだソフトブレーンの社長だった時、私が勤務している会社に来られたことがあった。
ところが、受付にいた女子社員が間違って、ミーティングルームの狭いテーブルに随行のお2人の方々と一緒に案内してしまった。それを知った私は慌てて飛んで行って、「宋先生、失礼しました。応接室にご案内します」と言うと、宋さんは少しも気を悪くされていない様子で、にこやかに笑いながらも、本当に少し困った様子で照れながら、「先生なんて呼ばないで下さい」と言われたのをよく憶えている。
宋さんは既に大事業家だったし工学博士でもあるのだから、どう見ても少しも偉くない私が先生と言ったところで少しも不自然ではない状況だった。
確かに、実際は先生と呼ばれることに違和感を持っている(立場上の)先生も少なくはないと思うが、それなら、上にあげた人達のように自分から辞退するのが良いと思う。
ただ、私の場合は、相手が言うことをうまく否定して辞退することもできない無能な者であるが、そんな人もまた他にもいるのかもしれないが。
イエスは、「私を先生と呼ぶのは正しい」と言い、自分が賢王として名高いソロモンに優ることを堂々と宣言していた。
だが、一方で、弟子達の足を洗い、子供が身近に寄ってくるのを決して止めなかった。
いかなる人物であれ、個人としては少しも偉くはない。
だから、たとえどんな成功者であっても、個人を崇拝するようなことを決してしてはならない。
だが、至高の存在は誰の内にもある。
人が個人であることをやめれば、即ち、小我が内なる大我に溶け込んで消えてしまえば、いかなる個人よりもはるかに優れている。
意外とすんなりと言えたような気がするが、そういうことであると思う。
「南無阿弥陀仏」という念仏は、阿弥陀如来という仏に南無する・・・つまり、帰依するということであり、帰依とは、相手を自分より圧倒的に優れた高位の存在と認めて平伏し、全て任せるという意味である。
そして、阿弥陀仏とは、元の言葉でアミターバ・・・無限の光明を持つ者、あるいは、アミターユス・・・無限の生命を持つ者という意味であり、即ち至高者である。
念仏を称える者がいかなる個人も及ばないことは当然であり、親鸞が、「念仏する者を、天の神も地の神も尊敬する」と言ったのはおかしなことではないと分かるのである。
そこには、驕るような個人(小我)は決して存在しない。
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