あなたは、どんな死を迎えるのだろう?
映画『タイタニック』で、ローズを浮いた板に乗せ、自分はナイフで刺されるような寒水に浸かりながら、ジャックは決して諦めないようローズを励まし、「僕はこんなとろこで死なない。温かいベッドで死ぬんだ」と言う。
多くの人々が、愛する人や家族に看取られながら息を引き取りたいと思うのかもしれないが、一方、「死に場所」を探すような者もいる。
白土三平さんの漫画『忍風カムイ外伝』で、悪徳商人を捕らえに大勢の役人がやってきた時、浪人だが剣の達人である侍が、悪徳商人に逃げるように言い、「遂に死に場所を見つけたぞ」と言って喜び、役人達に立ち向かって行く。善悪の問題ではなく、権力と戦って散ることが彼の望みであったのだろうか?
万に1つも勝ち目のない戦いに、単身で、もしくは、わずかの仲間と立ち向かって行くというお話は、ふと思い出せるだけでもいくらかあり、しかも、思い出すたびに、胸が熱くなったり、涙が出るものすらあるが、つくづく、これが人間の業であるのだなあと思う。

「決死」という言葉は、勝てる見込みが僅かでもある場合には使うべきでない。
「決死の覚悟で立ち向かって勝利した」なんて誤魔化し、デタラメ、嘘もいいところだ。
決死であるからには、最後は間違いなく敗北でなければならない。
それも、「殺したいほど憎んでいる」相手の嘲笑を浴びながら惨めに死に、みっともなく敵に晒した屍は、ネズミか虫の死骸のように踏みにじられ、唾をかけられるのでなくてはならない。

本来、動物というものは、自分の死期を悟ると、群を離れ、一匹で静かに死を迎えようとするものなのだそうだ。
飼い猫であっても、ある日、不意にいなくなり、家から離れた場所で死骸が見つかるということも時たまあるらしい。
本当かどうかは知らないが、人気野球選手だった新庄剛志さんが、そんな猫のように死にたいと言っていたというのを何かで見たような覚えがある。

現代の日本では、多くの老人が、荒れ放題の汚い部屋の中、汚れた身体で、老衰か餓死かの区別もつかない状況で、1人淋しく死んでいくのだろう。
私も、死ぬことそのものについては、それで良いのだと思うが、死体の処理で人様に手をかけさせるのは気が引ける。
ニュートンや岡田虎二郎は、自分の死を受け入れたからだと思うが、書いたものなどを全部燃やしたらしい。人類にとっては、貴重な歴史的遺産を失ったことになるのかもしれないが、彼らにとっては、いろんな意味で自分の創ったものをいじくりまわしてなど欲しくはなかったのだろう。

だが、こう考えていると、死というものは、なかなか良いものだという想いが溢れてくるのである。
決死の戦いで華々しく散るのは誰だろう?
それは私ではない。
自分の肉体もそうであるが、もっと注目すべきは、滅びるのは小我であるということだ。
生きている間、ずっと消し去りたかった小我がいよいよ念願叶って消滅するのだ。
これほど楽しいことがあるだろうか?

『声と言葉のアリア』(オペラ『THE END』のアリアの1つ。音楽は渋谷慶一郎、歌は初音ミク)の幽玄な歌と演奏を聴いていると、死に憧れるというのではないが、それは美しいものだということを、静かに強く感じるのである。
私は、この歌を時間があれば聴いている。
阿弥陀如来の名である阿弥陀は、インドでの名であるアミターバ、もしくは、アミターユスからきているが、その意味は、それぞれ、「無限の光を持つ者」「無限の生命を持つ者」であるらしい。
死とは本来の自分に帰ることであるが、それ(真の自己)が無限の光、無限の生命だというのは、人の創った観念ではなく、自然な直観によって知ることができるものだ。
「南無阿弥陀仏」の念仏、あるいは、この称号は、その悟りに自然に導くものである。
ならば、これほど価値のある言葉、あるいは、行はないはずである。









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