「俺は忍耐など絶対にしない主義だ」
と言ったところで、忍耐を強いられることは必ず起こる。
だが、苦しい状況も運命であるとして、甘んじて受け入れて耐える者は、不思議とものごとが好転していく。
忍耐とは、文句を言わず、黙って忍ぶことだ。
辛い時、口で黙っているだけでも立派で、誰の心の中にもいる神仏は、それを愛しいと感じる。
まして、心でも沈黙するなら、それは高貴以外の何者でもない。
神仏は高貴な者を支えるのであるから、そんな者が悪くなるはずはない。
腕振り運動を普及させた、電波工学の世界的権威であった関英男博士は、多くの人が、この腕振り運動であらゆる病気を治し、自身も胃癌を治したというが、大切なことは、決めた回数を根気よくやり抜くことであると述べていた。
これもまた忍耐である。
1日2千回と決めたら、怠惰な心に打ち勝ち、それを確実に継続すれば、その高貴な姿に、神仏が手を貸さないはずはないだろう。
もしかしたら、初めは利己的な欲から始めるとしても、毎日必ず実行すれば、欲は消えていき、やはり良い結果になる。
もし、いつまで経っても何も起こらないなら、まだ回数が少ないのだ。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は難病を患う武士に、「ありがたい」という言葉を1日百回言うよう指示し、治らなければ千回に、それでも駄目なら1万回としていった。そして、1万回を1週間続けたところ、その武士の病は治ってしまった。
大数学者だった岡潔は、毎日、念仏を称えることに励んでいたといわれるが、熱心に念仏を称え続けた者に起きた不思議な出来事は数多い。
どんなことでも良いが、1年365日、1日も欠かさず、決めたことを、できるだけ決めた時間に必ず行えば、神仏が助けないはずがない。
もし、ひどく辛い日々であっても、念仏を称えれば、それに耐える力も得られ、やがては幸福になるというのは、間違いのないことであると思う。
馬鹿みたいに単純であるが、真理とは本当は簡単なものである。
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と言ったところで、忍耐を強いられることは必ず起こる。
だが、苦しい状況も運命であるとして、甘んじて受け入れて耐える者は、不思議とものごとが好転していく。
忍耐とは、文句を言わず、黙って忍ぶことだ。
辛い時、口で黙っているだけでも立派で、誰の心の中にもいる神仏は、それを愛しいと感じる。
まして、心でも沈黙するなら、それは高貴以外の何者でもない。
神仏は高貴な者を支えるのであるから、そんな者が悪くなるはずはない。
腕振り運動を普及させた、電波工学の世界的権威であった関英男博士は、多くの人が、この腕振り運動であらゆる病気を治し、自身も胃癌を治したというが、大切なことは、決めた回数を根気よくやり抜くことであると述べていた。
これもまた忍耐である。
1日2千回と決めたら、怠惰な心に打ち勝ち、それを確実に継続すれば、その高貴な姿に、神仏が手を貸さないはずはないだろう。
もしかしたら、初めは利己的な欲から始めるとしても、毎日必ず実行すれば、欲は消えていき、やはり良い結果になる。
もし、いつまで経っても何も起こらないなら、まだ回数が少ないのだ。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は難病を患う武士に、「ありがたい」という言葉を1日百回言うよう指示し、治らなければ千回に、それでも駄目なら1万回としていった。そして、1万回を1週間続けたところ、その武士の病は治ってしまった。
大数学者だった岡潔は、毎日、念仏を称えることに励んでいたといわれるが、熱心に念仏を称え続けた者に起きた不思議な出来事は数多い。
どんなことでも良いが、1年365日、1日も欠かさず、決めたことを、できるだけ決めた時間に必ず行えば、神仏が助けないはずがない。
もし、ひどく辛い日々であっても、念仏を称えれば、それに耐える力も得られ、やがては幸福になるというのは、間違いのないことであると思う。
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唱え始めてから感じる不思義な感覚としては、例えば、お米の一粒一粒がが、非常に有難く、いとおしく感じる気持ちというか、表現が難しいのですが、一粒一粒が偉大な命であり、大切にしたいと言うか、大きな意味を持っている、と言うような感覚で、そういったものが一体となり、この世界は出来ているのであろうという予感でもあります。
1日に数千から一万程唱える中で、一つ一つの念仏が上で言うようなお米の一粒一粒のように、一瞬ー瞬が一つの念仏が、まさに命のある仏のように感じます。
1つの念仏も無駄では一つも無く、それぞれの念仏一つ一つが、全てが仏を表しているように、どうしても思えるのです。
私程度の者が単に思い込みだけなのかも知れませんが、今は、一瞬たりとも無駄な瞬間は無いのだと言う確信に心をゆだねたいと思っているのです。