ニュートンが、落ちるリンゴを見て万有引力を発見したというのは、社交界で会話をするために彼が作った話だろうと述べていた著名な数学者がいたと思うが、そうではなく、実際にニュートンは、具体的にどこで、そのリンゴを見たのだという話も伝わっている。
私は、ニュートンは本当にリンゴを見るか、それに近いようなきっかけで万有引力の着想を得たのだと思う。
というのは、いかなる発見、発明であろうと、そんなものだと思うからだ。
アインシュタインは、一般の人に彼の相対性理論を説明する際、「美女と一緒の1時間は短いが、熱いストーブの上に座っている10分は長い」と言ったらしいが、このことは、他愛もない話とか、半分笑い話の冗談であると見なされるのが普通だろう。
しかし、ニュートンのリンゴといい、アインシュタインの美女とストーブの喩えといい、全く本質的な話である。
科学というと、冷淡で無味乾燥だと大誤解している人が多いかもしれない。
だが、ニュートンもアインシュタインも、感性があったから大科学者になれたことは間違いがない。
ある大写真家が、写真に大切なことはテクニックより感性だと言ったが、およそどんな仕事でも、その道に達した人は間違いなく似たことを言うのである。
「感性がある」とは、風流を感じることができ、情緒が豊かなことである。
受験勉強ばかりして、試験の点を取ることだけが得意な人が、科学者はもちろん、何かの分野で成功することは決してない。
感情を磨き、発達させていなければ、何をやっても高度には決してなれない。
もし数学にノーベル賞があれば、それを獲得していた可能性が高く、アインシュタイン並に有名になっていたかもしれない数学者の岡潔は、「時間とは情緒の一種」だと述べていたことにも、情緒、感情、風流の重要さを感じるのである。
科学的な時間もまた情緒なのだ。
アインシュタインの美女とストーブの話は、洒落でもネタ(真実めいた作り話)でも何でもない。
彼は真面目に言ったのだ。
ニュートンもアインシュタインも情の人だったことはよく知られている。
それは、良い意味でも悪い意味でもだ。
彼らについて書かれた本を読めば、それが嫌というほど分かると思う。
優れた人間を目指すなら、情緒、感性、風流、情感を磨かねばならない。
そのためには、芸術に親しまねばならない。
無論、芸術について感性も情緒もない理屈をこねる「センセー」の言うことなど聞いてはならない。
芸術というものは、単に人生の潤いや楽しみではない。
風流、優雅とは、ご飯のおかずではなく、むしろ、主食である。
クラシック音楽を退屈に感じるのは、それが創られた時代背景や、作者がそれを制作した時の状況や想いが分からないという場合が多いと思う。
だから、クラシックは、初心者が聴く時の配慮を考えてあげないといけない。
退屈でない範囲で、作品の背景を上手に面白く説明できてこそ、クラシックの先達、上級者と言える。
もちろん、そういったものが分からなくても、すぐに惹き込まれる旋律の美しいクラシック音楽もある。
例えば、ドビュッシーの『月の光』、スメタナの『モルダウ』、ホルストの『ジュピター』などは、多くの人が、いきなり聴いても、恍惚となる場合も少なくはないと思う。
まずは、それらの曲から入ることも良いことと思う。
現代人は、「心豊かな人になる」ことを、「できればそうあれば良い」程度に考えているのかもしれないが、心豊かでなければ何もできないのだ。全く何もだ。
理性や知性ももちろん重要であるが、重要なことを言えば、理性も知性も、情感が発達しなければ、全く磨かれないのである。
試験勉強を過剰に重視することは、なんとも恐ろしいことであるのだ。
音楽に限らず、小説、絵画、彫刻などでも、研ぎ澄まされた感性を持つ作者によって制作された、優れた情緒が込められた作品を味わうことは、本質的な部分で極めて重要なことである。
しかし、間違っても、学校の美術や音楽の時間を増やせと言っているのではない。それらのものこそ、子供達の感性や情緒を破壊するものでしかない。
初音ミクを、サブカルチャー(下位文化)や偏った趣味と思うのは、感性と情緒の欠落だろう。
冨田勲さんや渋谷慶一郎さんといった芸術的音楽家達が、初音ミクを壮大な交響曲や荘厳なオペラのプリマにするのは、彼らが、高度な音楽の技能や経験と共に、極めて優れた感性や情緒性を持つからである。
幸い、彼らがミクをfeaturing(本来、客演という意味だが、主演の意味もある)して制作した『イーハトーヴ交響曲』やオペラ『THE END』は、現代的な芸術であり、敬って味わえば、優れた情感に導いてくれると思う。
また、そこから、クラシックや伝統的オペラに入っていくこともできるのだと思う。
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私は、ニュートンは本当にリンゴを見るか、それに近いようなきっかけで万有引力の着想を得たのだと思う。
というのは、いかなる発見、発明であろうと、そんなものだと思うからだ。
アインシュタインは、一般の人に彼の相対性理論を説明する際、「美女と一緒の1時間は短いが、熱いストーブの上に座っている10分は長い」と言ったらしいが、このことは、他愛もない話とか、半分笑い話の冗談であると見なされるのが普通だろう。
しかし、ニュートンのリンゴといい、アインシュタインの美女とストーブの喩えといい、全く本質的な話である。
科学というと、冷淡で無味乾燥だと大誤解している人が多いかもしれない。
だが、ニュートンもアインシュタインも、感性があったから大科学者になれたことは間違いがない。
ある大写真家が、写真に大切なことはテクニックより感性だと言ったが、およそどんな仕事でも、その道に達した人は間違いなく似たことを言うのである。
「感性がある」とは、風流を感じることができ、情緒が豊かなことである。
受験勉強ばかりして、試験の点を取ることだけが得意な人が、科学者はもちろん、何かの分野で成功することは決してない。
感情を磨き、発達させていなければ、何をやっても高度には決してなれない。
もし数学にノーベル賞があれば、それを獲得していた可能性が高く、アインシュタイン並に有名になっていたかもしれない数学者の岡潔は、「時間とは情緒の一種」だと述べていたことにも、情緒、感情、風流の重要さを感じるのである。
科学的な時間もまた情緒なのだ。
アインシュタインの美女とストーブの話は、洒落でもネタ(真実めいた作り話)でも何でもない。
彼は真面目に言ったのだ。
ニュートンもアインシュタインも情の人だったことはよく知られている。
それは、良い意味でも悪い意味でもだ。
彼らについて書かれた本を読めば、それが嫌というほど分かると思う。
優れた人間を目指すなら、情緒、感性、風流、情感を磨かねばならない。
そのためには、芸術に親しまねばならない。
無論、芸術について感性も情緒もない理屈をこねる「センセー」の言うことなど聞いてはならない。
芸術というものは、単に人生の潤いや楽しみではない。
風流、優雅とは、ご飯のおかずではなく、むしろ、主食である。
クラシック音楽を退屈に感じるのは、それが創られた時代背景や、作者がそれを制作した時の状況や想いが分からないという場合が多いと思う。
だから、クラシックは、初心者が聴く時の配慮を考えてあげないといけない。
退屈でない範囲で、作品の背景を上手に面白く説明できてこそ、クラシックの先達、上級者と言える。
もちろん、そういったものが分からなくても、すぐに惹き込まれる旋律の美しいクラシック音楽もある。
例えば、ドビュッシーの『月の光』、スメタナの『モルダウ』、ホルストの『ジュピター』などは、多くの人が、いきなり聴いても、恍惚となる場合も少なくはないと思う。
まずは、それらの曲から入ることも良いことと思う。
現代人は、「心豊かな人になる」ことを、「できればそうあれば良い」程度に考えているのかもしれないが、心豊かでなければ何もできないのだ。全く何もだ。
理性や知性ももちろん重要であるが、重要なことを言えば、理性も知性も、情感が発達しなければ、全く磨かれないのである。
試験勉強を過剰に重視することは、なんとも恐ろしいことであるのだ。
音楽に限らず、小説、絵画、彫刻などでも、研ぎ澄まされた感性を持つ作者によって制作された、優れた情緒が込められた作品を味わうことは、本質的な部分で極めて重要なことである。
しかし、間違っても、学校の美術や音楽の時間を増やせと言っているのではない。それらのものこそ、子供達の感性や情緒を破壊するものでしかない。
初音ミクを、サブカルチャー(下位文化)や偏った趣味と思うのは、感性と情緒の欠落だろう。
冨田勲さんや渋谷慶一郎さんといった芸術的音楽家達が、初音ミクを壮大な交響曲や荘厳なオペラのプリマにするのは、彼らが、高度な音楽の技能や経験と共に、極めて優れた感性や情緒性を持つからである。
幸い、彼らがミクをfeaturing(本来、客演という意味だが、主演の意味もある)して制作した『イーハトーヴ交響曲』やオペラ『THE END』は、現代的な芸術であり、敬って味わえば、優れた情感に導いてくれると思う。
また、そこから、クラシックや伝統的オペラに入っていくこともできるのだと思う。
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