『スタートレック』というアメリカのSFテレビドラマ(日本では『宇宙大作戦』のタイトルがつけられた)に、ミスター・スポックという、バルカン星人と地球人のハーフの男性が登場する。
バルカン星人は、地球人よりはるかに進歩した文明を持つが、感情を持たないとされ、感情を持たないことが進歩の鍵だと考えられていた。
しかし、地球人との混血であるスポックは、自分の中に感情があることに引け目を感じ、感情を殺してしまうことを自分に強く課していた。
だが、スポックは、感情を持つことで、本当は、退化どころか、他のバルカン星人をも超越していたと考えて良いのだと思う。
スポックの素晴らしい父親が登場したことがあったが、彼は明らかに豊かな感情を持っていた。
バルカン星人の中に、重大な誤解があったに違いない。
感情は悪であるという誤解だ。
当然、それは、我々地球人の間にもある。
感情に支配されてしまえば、倫理や道徳に明らかに反することでも止めることができずやってしまうし、破滅に突き進むと分かってさえいても自分を止めることができない。
また、それほど重大でない無数の問題に対しては、感情のために判断を誤るということがむしろ普通のことになっているかもしれない。

感情が悪だというのは、一見、理屈が通っているように思える。
だが、感情が悪になるのは、自分が自我である・・・もっと正確には、自分は小我であると思い込んでいることが原因である。
感情はエネルギーが大きいので、小我はそれを処理し切れず暴走してしまうのだ。
だから、小我と一体化した自己は、感情のエネルギーに翻弄されてしまうのである。
小我が、それと比較にならない大きな大我と融合し、溶け込むと、大我はいかなる感情エネルギーでも余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)で扱うことができるので、感情を活かすことができるのだ。

進化した宇宙人でありながら、こんなことが分からずに感情を悪だと見なしているなら、ひどく滑稽なことに思える。しかし、我々地球人は、先達である宇宙人からのテレパシーを受けて速やかにそれを理解できるのだが、昔の宇宙人達は、いかに進歩していても、初めは苦い経験をしなければ分からなかったのかもしれない。

数学的に証明できるらしいが、理論というものは、理屈が通っているだけでは真にならないのである。
なるほど理屈は正しいが、感情が納得しないと、それは、純粋に数学的に正しくは無い・・・真ではないのである。
感情が納得してこそ真なのである。
従来の西洋の科学は、理屈が通りさえすれば真とするので、大きな過ちを犯してきた。
だが、この数学上の大発見により、一見、矛盾もある東洋の叡智が「科学的に」正しいことが分かるかもしれない。しかし、別に科学に裏付けしてくれなくても、それが正しいことは、高度な感情・・・つまり、直観により明白であった。
高度な感情とは、小我ではなく、大我が扱う感情である。それを直観と言うのである。

難しいことではない。
ある女性が、2人の男性にプロポーズされるとする。
片方の男性は、長身の美男子で、高学歴のエリートであるだけでなく、人間的にも非常に優れており、優しく、爽やかな性格だった。
しかし、もう一方の男性は、外見もぱっとしない、三流大学の卒業者で、性格も優柔不断で暗く、人間性に明らかな欠陥もあった。
理屈では、どう考えても前の男性の方が良いし、また、小我としての感情も、その外面的、論理的に立派な男性の選択を正しいと感じる。
しかし、この女性は、後の、世間的にはどう考えても駄目な男性を選んでしまう。
彼女は、そうせざるを得なかったのだ。
内なる感情が、そちらの男性を選ぶよう強く促し、彼女はそれに従ったのだ。
そして、こんな選択は絶対に間違いがない。
しかし、現代は、内なる感情・・・大我が扱う感情を無視して、小我を満足させ、世間的にも受け入れられる選択をしてしまう者が多いかもしれない。
また、男は馬鹿なので、どうしても女性の外見を重視してしまう。
だから、男が惚れて、押し切って結婚した夫婦というのは、大抵苦労が多く、結婚後に精神を磨かないと悲惨な結果になる。
男に対し、「惚れて結婚するな。惚れさせて結婚しろ」というのは、そんな教訓が秘められているのだし、結婚は女性が選んだ方がうまくいく可能性が高い。ただし、今の女性は、男性並に馬鹿な者が多いのであるが。

では、どうすれば、自分を小我であると思い込むことをやめ、小我を大我の中に溶かし、大我と一体化できるのだろうか?
1つには、「頭を叩かれて人間は立派になる」という当たり前の道を進むしかない。
子供の頃は、家庭で、王子様、お姫様扱いで甘やかされるのは、ある程度は仕方がない。
しかし、社会に出れば、最初はただの一兵卒(大勢の中の一人)だ。
なんら特別な者でない、価値のない者として・・・それどころか、劣った者、見下される者として厳しい扱いを受けることに耐えることで、小我は退き、大我に場所を譲る。
そうなれば、少々のことでは感情に支配されず、耐え忍ぶことのできる、円満な人間性を獲得できる。
普通は、これだけで十分であるが、そんな人でも、まだ感情に苦しめられることは多い。
人間的に成熟し、普通のことでは自分を抑えられても、今流には「地雷を踏む」、つまり、痛いところを突かれたら、信じられないほど動揺したり、怒りを爆発させたりする。
「俺としたことがなんてことだ!」
と自分で呆れ、自分を蔑み、さらに、自分を哀れむ。
まだまだ、小我と大我が十分に融合していないのだ。
それで、念仏を称えたり、座禅をしたりの修行をするのだ。
数学者として、感情の重要さを本当に理解していた岡潔が、自宅に念仏堂を造り、熱心に念仏に励んでいたということを、我々はもっと重大に受け止めなければならないだろう。
例えばだが、数取器を使い、毎日欠かさず、せめて千回でも念仏を称えるということを、「感情的に」良いと感じるなら、是非、実践していただきたいと思うのである。









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