歴史的に有名な精神科医で、心理学者とも見なされるフロイトは、人間は本能が壊れた動物だと言った。
動物は、本能の命ずるままに行動すれば、それで生きていけるのだが、本能が壊れている人間はそうはいかない。
それで、本能を補うために自我というものを作ったのだが、自我は自然に立脚したものではない幻想のようなものであるので、人間が幻想の中で生きるしかないのは運命であるということになる。
確かに、自然界の中で、人間だけが異常なことをする。
虫でも鳥でも動物でも、雄同士が雌を争って戦うことはよくあるが、戦いの決着が付いたら・・・それは、片方が負けを認める合図をするということなのだが、そうすれば、勝った方もそれ以上の攻撃はしない。同種族の争いで、相手に致命傷を与えるなんてことは決してしないのだ。
しかし、人間は、同じ人間である相手が降参していようが、命乞いをしようが、残酷に殺すということをやらずにおれないことがよくある。
これはやはり、自然なことでは決してない、異常なことに違いない。

しかし、人間には動物にはない理性があり、それを発達させれば、自分をコントロールすることができる。
だが、そんな訓練をしない社会になってしまい、理性を発達させていない人間がやたら多くなってしまっている。
理性が高度になれば、動物並の争いさえせずに回避することができるはずなのに、今の人類は、動物を見て、気高いとか荘厳だとか思ってしまうほど落ちぶれているのである。
つまり、人間は、理性を発達させなければ、自然に背いた、どんな野獣にも劣る異常者でしかないのである。

今の人類に未来はなく、滅びは免れないだろう。
ではどうすれば良いのかというと、私には分からないのである。
だが、念仏や般若心経の真言を、毎日ある程度の数を称えるようにすれば、何か貴重な能力を発達させられるような気がするのである。
「南無阿弥陀仏」の念仏を、せめて1日千回称えるようにすれば、かなり精神性を発達させられると思う。
しかし、念仏を称えても、お金は儲からないし、モテないし、格好良くもない。
何の利益もないと思えるかもしれない。
しかし、きっと、仏様や菩薩様には誉めてもらえる行為であるし、高貴な行いだとは思うのだ。
親鸞は、念仏を称える者を、神や鬼神や魔王らが、尊敬したり、恐れたりすると言ったが、何らかの意味で、そうであると思うのである。
もちろん、さっぱりそう思わない人もいるに違いない。
それならそれで、座禅を組むとか、食を慎むとかを毎日欠かさずやれば、きっと成果が出ると思う。
それらのことは、やはり高貴に思えるからだ。
つまり、何でもいいから、自分が本当に高貴だと思えること・・・誰も見ていなくても、心のどこかで満足できることを毎日やれば、必ず奇跡的な変容を起こせると思う。
念仏とか、般若心経の真言、あるは、その他の呪文や真言というのは、実に素晴らしいものであると思うのだ。
それを利用しない手はないと思う。









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