中国浄土宗の僧であった道綽(どうしゃく。562-645)は1日7万遍、念仏を唱えたといわれている。
そして、我が国の浄土宗の開祖とされる法然は念仏を1日6万遍、後には、やはり7万遍唱えたと伝えられている。
しかも、彼らは暇ではなく、極めて多忙であったはずである。
昨日も書いたが、私は休みの日に、できるだけ多く念仏を称えてみたが、8千遍止まりだった。時間の問題というよりは、やはり、疲れも感じる。おかげで夜は安眠できたのであるが。
このように、自分でやってみると、6万遍とか7万遍はやはりとてつもない数だと実感できる。
しかも、それは毎日、1日も欠かさずであったはずである。

ところで私は、数年前、神道の代表的な祝詞(のりと)である大祓詞(おおはらえのことば)を3ヶ月ほどで5千本上げたことがあった。
休日は1日100本から120本上げた。
120本上げるのには、詠んでいる時間だけで7時間要した。1本上げるには3分はかかる。
ところが、江戸末期の神道家、黒住宗忠は、修行時代、3ヶ月の間、22日で17350本、30日で19740本、22日で9510本といった数字を残しているらしい。
最初の月では、1日平均789回。
仮に1日20時間ぶっ続けで上げたとしても、1本に91秒。
凄いというより、普通には絶対にあり得ない。
しかし、宗忠の他のことを考えると、嘘とは思えない。
宗忠は、実際にそれをやったのだと思う。

道綽も法然も黒住宗忠も、普通の人間ではないと思える。
超人と言うか、まさに、生き仏、神人であろう。
彼らは、物理的な時空を超えていたのである。
実際、宗忠が毎日お参りをした社(やしろ)と、それをした時間を計算したら、現在の最高のマラソンランナーでも不可能な時間で成し遂げているらしい。
もちろん、30歳もとおに超えていた宗忠が超人的マラソンマンであったのではなく、神的な力で時空を超えてしまっていたのだろう。
宗忠は比較的最近の人で、しっかりとした記録も残っているようだが、イエスにも匹敵、あるいは、それを凌駕するような逸話も数多いようだ。

大祓詞は、どこか、あまりに畏れ多いところがあって、こんなことは言えないのだが、念仏であれば、3つの意味があると私は思う。
1つは修行、1つは善行為、1つは趣味だ。
しかも、最良の修行、最高の善、そして、実に好ましい趣味だ。
数取器をカチカチ押しながら念仏を唱えるのは、実に楽しいものだと思った。
宗派は違えども、一休は法然を尊敬し、本物の菩薩だと言っていた。
その理由は、誰よりも・・・というより超人的なほどの学問を積み、驚異的な知恵があった法然が、文字も読めない衆生と同じになって、ひたすら念仏を称えたからだ。
実際、法然は、自分のような愚かな凡夫は念仏を称える以外、何もできないので、ただ念仏を称えたと言明している。
念仏に何の意味があるのかは、理屈では決して分からない。
趣味でいいから称えてみると、何かを直観で感じるかもしれない。
念仏は私の最高の趣味である。









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