人生は短く、貧弱な心と身体を持った人間は、正しい選択を行わなければならない。
どんな選択をすれば良いのかというと、最上のものを選び、後は捨てるのである。
よって、人間にとって、最上のものを選ぶ知恵が必要になる。
知恵は知識によって得られるものではない。
ましてや、妄想でしかない、世間の教義や信念では正しい選択は決してできない。

日本人の学力がなくなったのはゆとり教育のせいだと言って、授業時間を増やし、教科書のページ数を増やすことにしたのは、よほどの馬鹿か、良からぬ悪意を持った者達である。
ゆとり教育時代の教科書にしたって、我々は、その何割を知っているだろうか?
2割か?
3割か?
いや、そんなに多くはあるまい。
問題となっていることは、一流大学の学生が小学校の算数が分からないといった根本的なことなのだ。
そんなことが、教科書を厚くして、さらに余計な知識を詰め込んで解決するだろうか?
こんな簡単なことが分からない者が日本の教育を支配しているのである。

私が個人的に行ったことは以下のようなことだった。
まず、基礎的な学力は中学2年までで十分であり、中学2年生以下に、数学、国語、、英語、理科が普通に教えられると思えるなら、自分の勉強を始めるべきである。
尚、社会は中学以降の学校の学習は根本的に間違っていることが分かったので最初から無視した。教科書よりもっとためになる本を選んで読むべきである。

それ以降は、1人で学習できる。また、1人で学習できるような能力が、本当に必要な学力である。
以上の理由から、中学2年以降、私は授業に参加しなかった。
授業を聞いていないと、また、普段の、あるいは、夏休みの宿題を一切提出しないと、ナチスに捉えられたユダヤ人とは言わないが、まあ、そんなものを連想するような目に遭わされたが、正しいことをすれば、神仏が守ってくれた。
定期試験の試験範囲すら知らずに試験を受けたので、点数は推して知れるであろうが、どんな点数だったかは覚えていない。
まあ、テストの成績は10点満点なのかと考えて可笑しくなった思い出はある。

私は、丁寧に書かれた学習参考書を選び、数学、理科、英語だけを学習した。
私は、冷静に考えて、理解力や記憶力が高い方ではない・・・早い話が頭が良い方ではないので、それらの基礎を学ぶだけで精一杯であり、他のことをやっている余裕はなかった。
だからこそ、本当に大事なことをせず、それ以上の学校の勉強をするのは間違いだと確信し、それをしないことを決定した。
それが私の最上の選択だった。
英語に関しては、必要な実践をする機会がなかったので、実用レベルの能力はつかなかったが、数学と科学だけは、最低限の理解を得られた。
当然、それで試験や受験がうまくいくはずがなかったが、それらで最高の成果を出した人間が、どう考えても自分に優るとは思えなかった。
それどころか、試験や受験で成功した人々は、思考が著しく制限されてしまっていて、人間が本来持つ能力をほとんど発揮できず、特に、直観を完全に失っている。
私も公立大学の工学部くらいには入れたが、その学習のおかげでひどく馬鹿になってしまったのである。
一緒にしては悪いが、アインシュタインが試験のための学習のおかげで、長い期間に渡って創造的な思考ができなくなってしまったと嘆いていた意味がよく分かるのである。

私は、普通以上に学校の勉強をした人達よりは、おそらく少しはマシな能力を使ってやれる仕事として、コンピューターシステム開発の仕事を選択した。
それまでは、セールスや事務の仕事をしてみたが、それらの仕事は不合理な面が多く、あまりに疲労が大きかった。
コンピューターシステムの開発も、依頼者を選ばないとひどく不合理で疲れるものであるが、あらゆる仕事同様、必ずしも客を選べない。
(セールスや事務職は、依頼者を一切選べないという意味で不合理なのである。仕事自体が悪いのではない)
私も客は選べないのであるが、それでも・・・このような言い方をするしかないが、神仏の加護で、いつもうまく切り抜けてきた。
世間的な勉強をした者は、神仏の加護が得られ難い。
このことを「馬鹿な」と言うならそれで良い。
そんな考え方は私の知ったことではないからであり、私は確かに神仏の加護を受けているのだから。
正しい学習をしていれば、目には見えないこの世の流れに自然に乗ることができ、ほとんど苦労せずに、楽にやっていける。
しかし、利益や名誉を求めると、世間の人並になり、つまらぬ苦労を背負い込むことになる。
まあ、それも人間を理解する上で必要なことだろう。
だが、いつまでも苦労して苦しんでも仕方がないので、時々、荘子を読んで、世俗を超えることを思い出さねばならない。やはり私は馬鹿なのだろう。
一切の権威を受け入れず、決して個人を崇拝せず、世間の価値に対しては、それを眺めることはしても、決して重きを置かず、自分の内側にある真の自己に注意を向けるのである。
そうすれば、世間の中にあってさえ、魔法の力を得たように、悠々と生きて行けるだろう。
苦しみ多い人生であれば、間違いなく、家庭や学校で間違った教義や信念を叩き込まれ、それを背負い続けているのだ。
台所のゴミを捨てるのに、そのゴミを吟味する必要はない。
同様に、学校で押し付けられたものは、ただ捨てれば良いのである。
それはゴミなのだから。









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