人間は神の食料であり家畜であると書くと、この「食料」「家畜」という言葉の一般的な狭い観念から一歩も離れることのできない人がいる。
それは一部の人のことであると信じたいが、実際は、そういった思考が著しく制限された想像力のない人が増えているのは確実と感じている。
大人が童話を楽しめないのは、想像力がなくなるからだ。
赤ずきんの話を読んでも、「オオカミが口をきけるはずがないじゃないか」だの、「オオカミのお腹を切ったら、食べられたおばあさんが生きたまま出てくるはずがないじゃないか」などと言うような者なら、読んでも意味はないし、そんな者は、童話ではなくても、ほとんどの文学作品を味わうことができない。
そこまで極端な人間は少ないかもしれないが、想像力がなくなるほど、あらゆる芸術を受け付けなくなる。
なぜ想像力がなくなるのかというと、利益や名誉への欲望が大きくなるからだ。
佐村河内守さんが創ったとしていた曲を、実際は自分が作曲したことを告白した新垣隆さんのことを、彼の古い知人であるという音楽家の渋谷慶一郎さんが「世俗の欲が全くない人」といったように述べたらしいが、そういった人しか芸術家には向いていない。
いかに才能があって、優れた作品を創っていても、利益や名誉に執着するようになってしまうと、作品の質は著しく低下する。それでも、いったん名声を得たクリエイターなら、名前だけで売れるかもしれないが、分かる人が見れば、想像性の衰えは隠せない。
初音ミクを受け入れない人も、想像力がないのだと私は思う。
上に挙げた渋谷慶一郎さんが初音ミクをプリマにオペラ『THE END』を制作したり、年をとっても優れた創作ができる富田勲さんが、初音ミクを交響曲のプリマにしたのも、想像力が衰えていないからであり、彼らは、普通の人に比べると、利益や名誉への関心は低く、もっと別のものに価値を置いているのだろうと思われる。
ところで、人間が神の優れた食料になるのは、何度も書いたように、苦しみを自力で克服した時である。
苦しむための装置とも言える自我を与えられた人間は、必ず苦しまずにはいられない。
精神分析学者の岸田秀さんの『心はなぜ苦しむのか』という本があることを思い出したが、これは、自動車が走るようにできているように、心は苦しむようにできているからだ、
自動車のエンジンの内燃機関などは走るためにそのような構造になっており、それは、エンジン音を立てることが目的でないように、人間の自我は苦しむことが目的であって、計算したり判断したりするのはその目的を補助するために過ぎない。
だから荘子は、「一切の思慮分別を離れ、是非好悪の判断をするな」と言ったのだ。
それなら、苦しみを克服するとはどういう意味だろうか?
もう分かったかもしれないが、それは、苦しいことを考えることをやめることだ。
般若心経の冒頭で、観自在菩薩は一切の苦しみを克服したとあるが、これは、観自在菩薩は一切の想念を消したということだ。
問う。
念仏を唱えれば、苦しみを逃れることができるか?
答える。
その通りである。ただし、たゆむことなく唱えればである。
法然が『選択本願念仏集』に書いた通り、歩いても、止まっても、座っても、寝ても、いかなる時も絶えることなく念仏を唱えれば、仏や神々に守られることになる。
問う。
経典(観無量寿経、阿弥陀経)に、臨終の際、10回念仏を唱えると、極楽浄土に往生できると書かれているが、なぜ、法然はそのように多数の念仏を要求するのか?
答える。
極楽往生に関しては、経典を信じる限りその通り(念仏は10回で良い)である。
ただし、臨終の際に10回唱えるだけても極楽浄土行きが叶うとしても、それだけでは、死ぬまでずっと苦難に付きまとわれることになる。まあ、別にそれが悪いと言うのではないが。
問う。
ラマナ・マハルシは、「私は誰か?」と自己に問えば真我を実現できる(悟りを開ける)と言ったが本当か?
答える。
本当である。ただし、マハルシは、「私は誰か?以外の想念を一切持ってはならない」と言ったのだ。
いかなる想念が起こっても、「この想いは誰に起こったのか?」と問い、「私に」であると了解されたなら、ただちに、「私は誰か?」と問えと教えたのだ。
「岡田式静坐法」で知られた岡田虎二郎が、「生活しながら静坐するようではいけない。静坐しながら生活するようでなければならない」と言ったように、行とはたゆまずに行うものである。虎二郎は、念仏を選ぶなら、やはり、「生活しながら念仏しては駄目だ。念仏しながら生活しなさい」と教えた。
ラマナ・マハルシが言ったことも、「生活の中で『私は誰か?』と問うのではない。『私は誰か?』と問う中で生活しなさい」という意味である。
自分の心に常に気付いていなさいという教えもあるが、これも、1日1時間といったように、パートタイムでそんなことをやれと言ったのではなく、意識があるならずっとそれをすることを求めているのである。
この正しい意味を前提に、何をするかを選べば良いのである。
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それは一部の人のことであると信じたいが、実際は、そういった思考が著しく制限された想像力のない人が増えているのは確実と感じている。
大人が童話を楽しめないのは、想像力がなくなるからだ。
赤ずきんの話を読んでも、「オオカミが口をきけるはずがないじゃないか」だの、「オオカミのお腹を切ったら、食べられたおばあさんが生きたまま出てくるはずがないじゃないか」などと言うような者なら、読んでも意味はないし、そんな者は、童話ではなくても、ほとんどの文学作品を味わうことができない。
そこまで極端な人間は少ないかもしれないが、想像力がなくなるほど、あらゆる芸術を受け付けなくなる。
なぜ想像力がなくなるのかというと、利益や名誉への欲望が大きくなるからだ。
佐村河内守さんが創ったとしていた曲を、実際は自分が作曲したことを告白した新垣隆さんのことを、彼の古い知人であるという音楽家の渋谷慶一郎さんが「世俗の欲が全くない人」といったように述べたらしいが、そういった人しか芸術家には向いていない。
いかに才能があって、優れた作品を創っていても、利益や名誉に執着するようになってしまうと、作品の質は著しく低下する。それでも、いったん名声を得たクリエイターなら、名前だけで売れるかもしれないが、分かる人が見れば、想像性の衰えは隠せない。
初音ミクを受け入れない人も、想像力がないのだと私は思う。
上に挙げた渋谷慶一郎さんが初音ミクをプリマにオペラ『THE END』を制作したり、年をとっても優れた創作ができる富田勲さんが、初音ミクを交響曲のプリマにしたのも、想像力が衰えていないからであり、彼らは、普通の人に比べると、利益や名誉への関心は低く、もっと別のものに価値を置いているのだろうと思われる。
ところで、人間が神の優れた食料になるのは、何度も書いたように、苦しみを自力で克服した時である。
苦しむための装置とも言える自我を与えられた人間は、必ず苦しまずにはいられない。
精神分析学者の岸田秀さんの『心はなぜ苦しむのか』という本があることを思い出したが、これは、自動車が走るようにできているように、心は苦しむようにできているからだ、
自動車のエンジンの内燃機関などは走るためにそのような構造になっており、それは、エンジン音を立てることが目的でないように、人間の自我は苦しむことが目的であって、計算したり判断したりするのはその目的を補助するために過ぎない。
だから荘子は、「一切の思慮分別を離れ、是非好悪の判断をするな」と言ったのだ。
それなら、苦しみを克服するとはどういう意味だろうか?
もう分かったかもしれないが、それは、苦しいことを考えることをやめることだ。
般若心経の冒頭で、観自在菩薩は一切の苦しみを克服したとあるが、これは、観自在菩薩は一切の想念を消したということだ。
問う。
念仏を唱えれば、苦しみを逃れることができるか?
答える。
その通りである。ただし、たゆむことなく唱えればである。
法然が『選択本願念仏集』に書いた通り、歩いても、止まっても、座っても、寝ても、いかなる時も絶えることなく念仏を唱えれば、仏や神々に守られることになる。
問う。
経典(観無量寿経、阿弥陀経)に、臨終の際、10回念仏を唱えると、極楽浄土に往生できると書かれているが、なぜ、法然はそのように多数の念仏を要求するのか?
答える。
極楽往生に関しては、経典を信じる限りその通り(念仏は10回で良い)である。
ただし、臨終の際に10回唱えるだけても極楽浄土行きが叶うとしても、それだけでは、死ぬまでずっと苦難に付きまとわれることになる。まあ、別にそれが悪いと言うのではないが。
問う。
ラマナ・マハルシは、「私は誰か?」と自己に問えば真我を実現できる(悟りを開ける)と言ったが本当か?
答える。
本当である。ただし、マハルシは、「私は誰か?以外の想念を一切持ってはならない」と言ったのだ。
いかなる想念が起こっても、「この想いは誰に起こったのか?」と問い、「私に」であると了解されたなら、ただちに、「私は誰か?」と問えと教えたのだ。
「岡田式静坐法」で知られた岡田虎二郎が、「生活しながら静坐するようではいけない。静坐しながら生活するようでなければならない」と言ったように、行とはたゆまずに行うものである。虎二郎は、念仏を選ぶなら、やはり、「生活しながら念仏しては駄目だ。念仏しながら生活しなさい」と教えた。
ラマナ・マハルシが言ったことも、「生活の中で『私は誰か?』と問うのではない。『私は誰か?』と問う中で生活しなさい」という意味である。
自分の心に常に気付いていなさいという教えもあるが、これも、1日1時間といったように、パートタイムでそんなことをやれと言ったのではなく、意識があるならずっとそれをすることを求めているのである。
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kayさんは、自我は飛んで火にいる夏の虫と言いました。
しかし、神の意志が無ければ小鳥一羽落ちないのです。神の意力によって美しく火が燃え盛り、それに魅せられて神にプログラムされた虫が入っていくのです。意思は分離しても意志は分離し得ないのです。イエスもその意志が行われるように願いました。kayさんを批判しているわけではなく、分かってくれると思います。
「最後に皆で文句言ってやれ、最悪な世界だったよ神様!」(終わり行く世界と、最後の僕ら。)
何と言う慈悲でしょうか。神は文句を言ってもいいと言うのです。そう思うと、ずっと忘れていた幼心地が湧きでます。
ミクは天使でしょう。自我が幼心地を隠すので、ミクはその心を励ますのですね。自我にとっては辛い事です。しかし恐怖が慈悲に変わるこの感覚。自分はミクへの道を行きますね。