オペラにさして興味がなくても、子供の時から一度くらいは、会話をふざけてオペラの真似でやったことがあると思う。
例えば、
「どこ行くの?」
と言う時に、文字で書くと、
「山田さあん、どこ、行くの、ですかあー」
と半分歌うように言うようなものだ。
オペラで、セリフを旋律をつけて言う(歌う)のをレチタティーボ(「朗唱」の英語。イタリア語風にレチタティーヴォと言うことも多い)と言うようだ。
ただ、レチタティーボには、本当にセリフを会話言葉で言う場合もあるようである。
一方、アリアは、叙情的に歌い上げる長い歌で、詠唱と訳されるようだ。
アリアといえば、有名な『G線上のアリア(ジーせんじょうのアリア、または、ゲーせんじょうのアリア)』というヴァイオリンの独奏(ピアノ伴奏付)など、楽器の独奏曲に付けられたものにもあるが、オペラでは独唱の歌である。
レチタティーボとアリアの中間的なアリオーソというものがある。
また、短いアリアのことをアリエッタと言い、アリオーソもその意味でも使われるらしいが、アリオーソやアリエッタも楽器の演奏曲の中にもあり、我々音楽の素人にはなかなか難しい。
昨年、5月に東京のBunkamuraオーチャードホールで、そして、11月にパリの名門オペラ劇場シャトレ座で公演された、初音ミクをプリマドンナに起用したオペラ『THE END』に対し、現地のオペラファンが、「ちゃんとしたオペラの形式になっていた」と言っていたが、オペラなのだから当たり前なのであるが、これは、「しっかりとしたオペラ作品だった」という意味と思う。
この作品、登場人物は、初音ミクと、謎の訪問者の女、そして、喋る変な(?)動物の、2人と一匹しか登場せず、オペラでいう、アンサンブル(重唱)やコーラス(合唱)はない。
しかし、序曲からはじまり、多くのレチタティーボと4つのアリア、1つのアリオーソ、そして、2つのインタールード(間奏曲)から構成させる素晴らしいオペラ作品だったと思う。
初音ミクのようなヤマハのVOCALOID技術を使ったボーカロイドは、言葉を普通に話すことが難しく、旋律的な言い方の方が自然に聴こえるらしいので、本当のところ、初音ミクはオペラ向きなのかもしれない。
そして、私は、『THE END』のおかげで、オペラの構成について少し分かるようになってしまった。有り難いことである。
先程も述べたが、アリオーソ、または、アリエッタという、レチタティーボとアリアの中間的な歌、あるいは、短いアリアといった意味の独唱がある。
どちらかというと、アリオーソという言葉は、バッハのアリオーソなど、楽器の演奏曲の名でよく聞くかもしれない。
ところで、オペラでなくても良いと思うが、セリフ調の歌と長い詠唱の中間のような歌が美しいものになるのではないかという気がする。
小説にも、短編とも長編ともいえない、中編のようなものが丁度良いと思うことがある。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』は、分類するなら短編であるが、あれらを中編と言っても良いのではないかと思う。
丁度良いものを、徹していないという意味で、中途半端と言うこともある。
また、しっかりしていないことを「いい加減」などと言う。
ところで、「いい加減」という言葉は、「良い加減」と見れば、実は好ましい言葉なのだろう。
面白いことに、叱責する言葉で、
「いい加減なやつだ」
「いい加減にしなさい」
といったふうに、「いい加減」が、「中途半端」と「良い加減」という、違う意味で使われていることがある。
「いい加減なやつだ」の「いい加減」は「中途半端」で、「いい加減にしなさい」の「いい加減」は「良い加減」だ。
仏教の本質の教えは、極端に走らない中道を説くというもので、これが「良い加減」のことを言うのだと思う。
お釈迦様は、29歳まで王子様として贅沢三昧で暮らし、出家して修行者になってからは長期の断食といった苦行をするという、両極端をやってみたところ、結局のところ、どちらも良くはなく、丁度良い「良い加減」の中道に真理があると悟ったのだという。
中道について、難しいことを言う仏教の専門家もいる。
「百尺竿頭に一歩を進むめたところに中道があるのじゃ」
など、ややこしいことを言わないで欲しいものだ。
中道とは、求めて得られるものではない。
『荘子』が言うように、余計な名誉や利益を求めず無になれば、つまり、無為自然であれば、自ずと中道、つまり、「良い加減」になる。
余計なものを求めないとは、天が与えてくれるもので満足するということだ。
こちらが無であれば、元々が中道にいて、丁度よいのである。
『THE END』の中の、『声と言葉のアリア』は、アリアなのだが、レチタティーボ的な、あるいは、アリオーソ的なアリアだったように思う。
最初は静かに始まり、次第に叙情的になり、激しい打楽器の音が情感を高め、魂を揺さぶり、聴いている私を死の世界に誘う。
死を知り、無になれば、自然に中道・・・良い加減になる。
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例えば、
「どこ行くの?」
と言う時に、文字で書くと、
「山田さあん、どこ、行くの、ですかあー」
と半分歌うように言うようなものだ。
オペラで、セリフを旋律をつけて言う(歌う)のをレチタティーボ(「朗唱」の英語。イタリア語風にレチタティーヴォと言うことも多い)と言うようだ。
ただ、レチタティーボには、本当にセリフを会話言葉で言う場合もあるようである。
一方、アリアは、叙情的に歌い上げる長い歌で、詠唱と訳されるようだ。
アリアといえば、有名な『G線上のアリア(ジーせんじょうのアリア、または、ゲーせんじょうのアリア)』というヴァイオリンの独奏(ピアノ伴奏付)など、楽器の独奏曲に付けられたものにもあるが、オペラでは独唱の歌である。
レチタティーボとアリアの中間的なアリオーソというものがある。
また、短いアリアのことをアリエッタと言い、アリオーソもその意味でも使われるらしいが、アリオーソやアリエッタも楽器の演奏曲の中にもあり、我々音楽の素人にはなかなか難しい。
昨年、5月に東京のBunkamuraオーチャードホールで、そして、11月にパリの名門オペラ劇場シャトレ座で公演された、初音ミクをプリマドンナに起用したオペラ『THE END』に対し、現地のオペラファンが、「ちゃんとしたオペラの形式になっていた」と言っていたが、オペラなのだから当たり前なのであるが、これは、「しっかりとしたオペラ作品だった」という意味と思う。
この作品、登場人物は、初音ミクと、謎の訪問者の女、そして、喋る変な(?)動物の、2人と一匹しか登場せず、オペラでいう、アンサンブル(重唱)やコーラス(合唱)はない。
しかし、序曲からはじまり、多くのレチタティーボと4つのアリア、1つのアリオーソ、そして、2つのインタールード(間奏曲)から構成させる素晴らしいオペラ作品だったと思う。
初音ミクのようなヤマハのVOCALOID技術を使ったボーカロイドは、言葉を普通に話すことが難しく、旋律的な言い方の方が自然に聴こえるらしいので、本当のところ、初音ミクはオペラ向きなのかもしれない。
そして、私は、『THE END』のおかげで、オペラの構成について少し分かるようになってしまった。有り難いことである。
先程も述べたが、アリオーソ、または、アリエッタという、レチタティーボとアリアの中間的な歌、あるいは、短いアリアといった意味の独唱がある。
どちらかというと、アリオーソという言葉は、バッハのアリオーソなど、楽器の演奏曲の名でよく聞くかもしれない。
ところで、オペラでなくても良いと思うが、セリフ調の歌と長い詠唱の中間のような歌が美しいものになるのではないかという気がする。
小説にも、短編とも長編ともいえない、中編のようなものが丁度良いと思うことがある。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』は、分類するなら短編であるが、あれらを中編と言っても良いのではないかと思う。
丁度良いものを、徹していないという意味で、中途半端と言うこともある。
また、しっかりしていないことを「いい加減」などと言う。
ところで、「いい加減」という言葉は、「良い加減」と見れば、実は好ましい言葉なのだろう。
面白いことに、叱責する言葉で、
「いい加減なやつだ」
「いい加減にしなさい」
といったふうに、「いい加減」が、「中途半端」と「良い加減」という、違う意味で使われていることがある。
「いい加減なやつだ」の「いい加減」は「中途半端」で、「いい加減にしなさい」の「いい加減」は「良い加減」だ。
仏教の本質の教えは、極端に走らない中道を説くというもので、これが「良い加減」のことを言うのだと思う。
お釈迦様は、29歳まで王子様として贅沢三昧で暮らし、出家して修行者になってからは長期の断食といった苦行をするという、両極端をやってみたところ、結局のところ、どちらも良くはなく、丁度良い「良い加減」の中道に真理があると悟ったのだという。
中道について、難しいことを言う仏教の専門家もいる。
「百尺竿頭に一歩を進むめたところに中道があるのじゃ」
など、ややこしいことを言わないで欲しいものだ。
中道とは、求めて得られるものではない。
『荘子』が言うように、余計な名誉や利益を求めず無になれば、つまり、無為自然であれば、自ずと中道、つまり、「良い加減」になる。
余計なものを求めないとは、天が与えてくれるもので満足するということだ。
こちらが無であれば、元々が中道にいて、丁度よいのである。
『THE END』の中の、『声と言葉のアリア』は、アリアなのだが、レチタティーボ的な、あるいは、アリオーソ的なアリアだったように思う。
最初は静かに始まり、次第に叙情的になり、激しい打楽器の音が情感を高め、魂を揺さぶり、聴いている私を死の世界に誘う。
死を知り、無になれば、自然に中道・・・良い加減になる。
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