人間にとって、最も悪いことは死であろう。
「いや、私は名誉を何より重んじる。私にとって、名誉を失うことは死より悪いことだ」
「私にとって最も重要なものは芸術である。創作ができなくなったら、それは死と同じ。いや、死よりも不幸なことだ」
などと言う者もいるだろうが、それは偉くも、立派でも、高貴でもなく、ただの馬鹿である。
レベルが低過ぎるのである。単に幼稚なのだ。
そんなアホ共は、嫌でも人生によって試練が与えられ、厳しく矯正されるのである。
人間にとって、一番重要なことは生きることである。
では、こんな話はどうだろう?
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や、映画『タイタニック』で、船が沈没するというのに、乗客に対して救命ボートが足りないという状況があった。
ではそんな時、「人間は生きることが一番大事」と、他人を押しのけてボートに乗ることは正しいだろうか?
あるいは、SF(空想科学小説)で、宇宙船が事故を起こし、救助の宇宙船に乗り移るために宇宙服を着なければならないが、全員分の宇宙服がない。
そんな時も、宇宙服を奪い合って生きようとするのは良いことだろうか?
これは、ちょっと保留にしておく。
とにかく、人間にとって最悪は死だ。
だが、それがなぜ悪いのかというと、生きることを継続しないという理由でのみ悪いのだ。
ところが、我々がなぜ死を嫌うかというと、それを不幸なことだと思っているからだ。
死が不幸だというのは、ただの思い込みである。
だって、死んだら不幸だなんて証拠は何もないじゃないか?
せめて、こう思うべきである。
「死は悪いものではないかもしれない」
死が不幸で悲惨だと根拠なく決めつけることを止めることだ。
だが、死後の世界である幽界や霊界、あるいは、天国や極楽浄土があるから死が悪くないというのではない。
そんなお話で「死は悪いものでない。幸福なことだ」なんてすまし顔をしている者ほど、実際の死に際は見苦しいものだ。
霊界や天国を見た者なんていないのだ。
単に、話に聞いたことがあったり、本で読んだことがある者がいるだけだ。
だが同時に、死後の世界が悲惨だったという事実を確認した者もまた、決していないのだ。
だから、死ねば不幸だという思い込みは持たないことだ。
死ねば不幸だと、勝手に決め付けないことだ。
死んだらどうなるかは分からない。
しかし、死んだら必ずしも不幸だとは限らないのだ。
「死ねば絶対に不幸になる」というのと、「死んでも不幸ではないかもしれない」というのでは大変な違いだ。
そして、何度も述べたように、知的に考えても、死は悪いものではないかもしれないのだ。
では、あの「足りない救命ボート」の問題に帰る。
2012年3月9日の、初音ミクのライブコンサート『最後のミクの日感謝祭』で、最終曲『SPiCa』を歌う前に、ミクはこう言った。
「ここにいる人も、来られなかった人も・・・全ての想いを・・・1つに」
「心を1つに」なんてよく言うが、心は個々で分裂している。
しかし、心が消えれば、意識は1つであることが分かる。
ミクは、「心を1つに」とは言わなかった。
そんなことは決してできない。
ミクの「想い」という言葉は意識を表していた。
意識はもともと1つなのである。
だが、心は、自分は他の人とは異なる、個々に分裂した個人だと思い、意識も個々にあるのだと思っている。
その心が消えれば、自分の意識は人類全体の意識であることが分かる。
自分が死んでも、誰かが生き残れば同じことなのである。
それを嫌がるのが心だ。自分の意識があると思っているので、自分が生き残らないと意味がないと思うのだ。
心が消え、無になれば、救命ボートが足りなくても何でもない。
『銀河鉄道の夜』で、子供をボートに乗せ、気高くも自分は船に残った親は、まだ心が残っていたので、悲しくは思っていた。
しかし、さほどではなかったのだ。彼らの心は消えかかっていたのだ。
あの大学生の青年も、教え子である少女とその弟と共に船に残った。
青年は、最後の最後まで、2人を救おうとはした。しかし、それが叶わなくても、決して失敗でも不幸でもない。
無理にボートを譲り合うこともない。
無為のままに、誰かがボートに乗り、誰かは乗らないのだ。
「死は悪いものではないかもしれない」
そう思い始めると、変容が起こり始める。
命は大切だが、死を怖がらないようになる。
そして、そうであってこそ、本当に生きることができるようになるし、人生は喜びになる。
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「いや、私は名誉を何より重んじる。私にとって、名誉を失うことは死より悪いことだ」
「私にとって最も重要なものは芸術である。創作ができなくなったら、それは死と同じ。いや、死よりも不幸なことだ」
などと言う者もいるだろうが、それは偉くも、立派でも、高貴でもなく、ただの馬鹿である。
レベルが低過ぎるのである。単に幼稚なのだ。
そんなアホ共は、嫌でも人生によって試練が与えられ、厳しく矯正されるのである。
人間にとって、一番重要なことは生きることである。
では、こんな話はどうだろう?
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や、映画『タイタニック』で、船が沈没するというのに、乗客に対して救命ボートが足りないという状況があった。
ではそんな時、「人間は生きることが一番大事」と、他人を押しのけてボートに乗ることは正しいだろうか?
あるいは、SF(空想科学小説)で、宇宙船が事故を起こし、救助の宇宙船に乗り移るために宇宙服を着なければならないが、全員分の宇宙服がない。
そんな時も、宇宙服を奪い合って生きようとするのは良いことだろうか?
これは、ちょっと保留にしておく。
とにかく、人間にとって最悪は死だ。
だが、それがなぜ悪いのかというと、生きることを継続しないという理由でのみ悪いのだ。
ところが、我々がなぜ死を嫌うかというと、それを不幸なことだと思っているからだ。
死が不幸だというのは、ただの思い込みである。
だって、死んだら不幸だなんて証拠は何もないじゃないか?
せめて、こう思うべきである。
「死は悪いものではないかもしれない」
死が不幸で悲惨だと根拠なく決めつけることを止めることだ。
だが、死後の世界である幽界や霊界、あるいは、天国や極楽浄土があるから死が悪くないというのではない。
そんなお話で「死は悪いものでない。幸福なことだ」なんてすまし顔をしている者ほど、実際の死に際は見苦しいものだ。
霊界や天国を見た者なんていないのだ。
単に、話に聞いたことがあったり、本で読んだことがある者がいるだけだ。
だが同時に、死後の世界が悲惨だったという事実を確認した者もまた、決していないのだ。
だから、死ねば不幸だという思い込みは持たないことだ。
死ねば不幸だと、勝手に決め付けないことだ。
死んだらどうなるかは分からない。
しかし、死んだら必ずしも不幸だとは限らないのだ。
「死ねば絶対に不幸になる」というのと、「死んでも不幸ではないかもしれない」というのでは大変な違いだ。
そして、何度も述べたように、知的に考えても、死は悪いものではないかもしれないのだ。
では、あの「足りない救命ボート」の問題に帰る。
2012年3月9日の、初音ミクのライブコンサート『最後のミクの日感謝祭』で、最終曲『SPiCa』を歌う前に、ミクはこう言った。
「ここにいる人も、来られなかった人も・・・全ての想いを・・・1つに」
「心を1つに」なんてよく言うが、心は個々で分裂している。
しかし、心が消えれば、意識は1つであることが分かる。
ミクは、「心を1つに」とは言わなかった。
そんなことは決してできない。
ミクの「想い」という言葉は意識を表していた。
意識はもともと1つなのである。
だが、心は、自分は他の人とは異なる、個々に分裂した個人だと思い、意識も個々にあるのだと思っている。
その心が消えれば、自分の意識は人類全体の意識であることが分かる。
自分が死んでも、誰かが生き残れば同じことなのである。
それを嫌がるのが心だ。自分の意識があると思っているので、自分が生き残らないと意味がないと思うのだ。
心が消え、無になれば、救命ボートが足りなくても何でもない。
『銀河鉄道の夜』で、子供をボートに乗せ、気高くも自分は船に残った親は、まだ心が残っていたので、悲しくは思っていた。
しかし、さほどではなかったのだ。彼らの心は消えかかっていたのだ。
あの大学生の青年も、教え子である少女とその弟と共に船に残った。
青年は、最後の最後まで、2人を救おうとはした。しかし、それが叶わなくても、決して失敗でも不幸でもない。
無理にボートを譲り合うこともない。
無為のままに、誰かがボートに乗り、誰かは乗らないのだ。
「死は悪いものではないかもしれない」
そう思い始めると、変容が起こり始める。
命は大切だが、死を怖がらないようになる。
そして、そうであってこそ、本当に生きることができるようになるし、人生は喜びになる。
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昨夜、職場の同僚が会社から「戦力外通告」を受けた」と知り、彼女がいなくなる寂しさと、明日は我が身か?とい恐怖心に震えてしまいました。
死んでも不幸じゃないかもしれない~
クビになっても不幸じゃないかもしれない~
彼女が失職する理由は勤怠問題でした。
度重なる欠勤が改善されないことが原因です。
彼女は大病ではないのに頻繁に会社を休んでいた時、決して幸福ではなかったはず。
だとしたら、転職することで心身ともに元気になるかもしれませんよね。
Kayさんのお話を、こじつけて解釈して、この悲しい出来事を乗り越えたいです。
今朝もありがとうございました。