能力開発に対する人々の関心は高いが、そんな人達が、ことごとに能力を消す方法ばかりやっているし、やらされている。
その意味が分かるだろうか?

能力を高める方法は、根本的にはただ1つで、それは、「予期(予想)せぬ出来事に対処する」ことだ。
だが、誰もが、予期できることばかりやろうとする。
学校でそんなことばかりやるよう「調教」されたからである。
予期できないことを恐れ、そんなものから逃げるよう躾けられてしまっているのである。
学校では、こんなことを言うのではないか?
「今日の数学の問題、予想外だったなあ」
誰かがそう言うと、みんなが同調する。
高校の数学の問題に、小学校の理科の問題でも出たってのかい?
いや、それですら、大して予想外とは言えない。
数学の試験が始まったと思ったら、生徒達は1人ずつ単独でアマゾンのジャングルに連れていかれて、そこで一ヶ月間放置され、生き延びられるかどうかがテストである・・・こんな感じなら、生徒達の能力も「少しは」高まるだろう。
ピアノコンクールに出場したら、言葉も通じないどこか外国の低所得者層ばかりの町に住まいが用意され、ピアノ教室を開いて、自分で生徒を勧誘して食べているかどうか試される・・・こうであったら、世界の芸術レベルも上がるかもしれない。
このレベルでなんとか「予想外」と言えるのだ。
ところが、学習塾や予備校では、「受験予想問題」なんてものを生徒に教え、それがまあ、見事に当ってしまう。それほどまでに予想内のことばかりやらされた生徒達が、たとえ受験に合格し、良い学校を出ても、飼育された動物が野生で生きていけないのと同じで、社会に出ても決まりきったことしかできないし、それどころか、学校の中だけでしかやっていけないようになってしまい、一生ニートになったりするのだ。そんな者達が、今はいっぱいいる。

会社では、「あの部長が急に退職するなんて予想外だなあ」と、馬鹿なことを言ったりする。
その程度は、DeNAが巨人に勝つのと同じくらいありふれたことだ。
5位の選手が3位の選手を差し置いてオリンピック代表に選ばれたって何の意外性もない。
総理大臣が靖国神社に参拝したことを、予想外とか予想内なんて言うのは、哀れなほど世間に飼い慣らされた肥満したネズミのようなものではないだろうか?
昨日まで教育会社だったのが、今日からは麻薬密造会社になったってくらいで、ちょっぴり「予想外」と言うのだ。
本当に能力のある者から見れば、その程度は、愉快とは思うかもしれないが、驚くようなことでは全くない。

通勤電車に乗っていて、どこかの駅についたら、マシンガンを持った大勢のテロリスト達が現れたとしたら、私なら、「うむ、来たか」くらいに思うだろう。
その程度で驚いたりはしない。
だが、他の人達はと見ると・・・いや、予想外、予想内という以前に、スマートフォンに集中してたり、間抜けな顔で眠りこけ、あるいは、悪臭を撒き散らしてパンを食べることに夢中で気付きもしないうちに撃ち殺されるのだ。
私は、逃走方法を冷静に考えるだろう。
もし、本当に予期せぬことだったら、考えても仕方がないので、考える前に直観で動くだろう。
それでうまくいくかどうかは全く分からない。しかし、他の者たちに比べ、緊急事態を切り抜ける可能性は10%でも高くなるかもしれない。
たとえうまくいかなくても、納得して死ぬのである。

能力を高め、好ましい成果を得たいなら、注意深くあることだ。
感覚を澄み渡らせ、眠り込まないことだ。
そうして、災厄に備え、好機を待つ。
本当に注意力が鋭敏になっているなら、何が起こったとしても、心は驚いたり躍動したりするかもしれないが、静かな精神もそこにあるのである。
常日頃、こうあることを自己開発というのである。
世間で言う、あるいは、書籍に書かれている自己開発、能力開発は全て嘘か間違いであり、何の価値もない。









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