イギリスの作家コリン・ウィルソンの30年程も昔の著作『右脳の冒険』は、実録を基に書いたものだが、ある1人の賢者と言うべき男が登場する。
特に際立ったところもない平凡な男なのであるが、あきらかに普通の人間とは違っており、悟りを開いているとか、解脱している、あるいは、真我を実現していると言って良いと思う。
確かに、彼も一夜でそうなった訳ではないが、最終的に彼に驚異の変革をもたらした出来事とは、次のようなものだ。
昔読んだ記憶で書いているので、正確ではないが、だいたいがこんなところだったと思う。
何か不幸な出来事のせいで、彼の妻は、ほとんど自意識を喪失した状態に陥っていた。
心優しい彼は、ベッドで心なく横たわる妻を、意識の回復を願って、片時も離れないほどに見続けた。
静かに、注意深く、妻を観察し続けたのだ。
彼がやったことは、それだけだった。

コリン・ウィルソンの主張は、至高体験(意識が拡大し、超意識に達するようなこと)を呼び起こすには、強い緊張の後の弛緩がポイントだということである。
だが、それは、似て非なりで、明らかに間違いだ。
アブラハム・マズローの言う、この至高体験は、ロマン・ロランが言った、「万物と一体化したような没我の状態」を示す「大洋感情」と同じものであると思うが、それに至るには緊張は不要で、むしろ、それは障害である。
大切なことは、徹底して静謐(静かで落ち着いていること)な精神が目覚めていることである。
それは、注意して気付いている時に現れる。
例えば、荘厳な風景を見た時、我々は歓喜を感じるが、その時、心は真っ白で何も考えていない。
その真っ白な心が、先程述べた「静謐な」心である。
だから、単に興奮したり、「しびれる」のではない、本物の感激をするのは良いことである。
その時に、普段は隠れている、神秘な心が現れるのだからだ。
だが、その心をしっかりと捕まえるためには、自分の心を観察し続けなければならないのだ。
そのためには、何かを注意深く観察し続けることが必要だ。真剣に何かを観察することは、自分の心を観察することだからだ。
その賢者になった男も、愛する妻を、ずっと注意深く観察し続けることで、自分の心を静かに観察していたのだ。
これが、本当の瞑想なのである。
世間の教祖達の言う瞑想は全て間違っており、何の価値もない。
そして、自己に対する瞑想が深く深くなった時、世界は消え、真の自己が輝き現れる。
その時、あなたは、自分が本当は何なのかをはっきり知る。
それが解脱であり、悟りである。

我々は、苦しい時や悲しい時、それをもたらした出来事を批判せず、ただ起こったことを静かに観察し、自分の心に気付いていることで、真の瞑想に導かれる。
だから、人間には、苦難や苦痛は必要なのである。
そんなことが何もなければ、我々の精神は弛緩してしまい、敏感さ、鋭さを失って、注意深く観察することはない。
だから、人生には、苦しみをもたらすような、予期せぬ出来事は絶対に必要なのである。
だが、人間は、未知を恐れ、全て予想できることしか起こらないような人生を歩みたがる。
しかし、あえて冒険に挑む時・・・予期せぬ出来事が起こることを許す時、我々の心は鋭敏になり、透き通った「気付きの状態」になる。
それを繰り返すことで、あなたは世界を征服し、世界を我が物とするのである。
あなたは、元々が王なのであり、世界の所有者であるということを知るのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ