少し以前にあった、こんな事件を憶えておられる方も多いと思う。
ある50代の男性は、80代の母親と二人暮らしであったが、母親は痴呆症で介護が必要なため、男性は仕事に行けなかった。
そこで、男性は生活保護の申請をするが、福祉事務局では、「働いてくれ」の一点張りで、生活保護は認められなかった。
しかし、男性は、実際、働くことは無理で、収入がなく、遂にお金が底をつく。
ある日、男性は、母親を車椅子に乗せて、長い時間、できるだけ見晴らしの良い場所を回って、母親に最後の「観光」をさせると、残ったお金で、コンビニの菓子パンを1つ買い、分けて食べた。
そして、母親に、「すまん」と謝ると、母親はボケてはいたが、「そうか、やっぱり駄目か?」と理解し、「死ぬ時は一緒だぞ」と息子に言った。
男性は、母親の首を絞めて殺し、自分も後を追おうとしたが、死に切れず、自首した。
このニュースを見た多くの人は、生活保護を拒否した福祉事務局や、行政のあり方や制度を批判した。
そのためか、その後、生活保護が受けやすくなり、ただでさえ不適切な受給者が多い中で、更に国や地方の財政を圧迫することとなった。
さて、この事件の問題は何であろう?
まず、この男性に、もっと行動力があれば、生活保護は勝ち取れたであろうということだ。
男性に、法的知識があれば更に良かったが、そうでないとしても、いろいろ手を尽くせば何とかなったはずだ。
お金なんて、どんな形にしろ、簡単に手に入るものじゃない。粘りが必要なのは言うまでもない。
とは言っても、男性を責める訳にはいかない。
この男性には、そんなことをする活力がなかったとも思われるからだ。
それは、80も過ぎた母親と心中しようとするところから、はっきり感じられるのである。
まず、言ってしまえば、悪いのは母親である。
息子を、これほど弱い人間にしてしまったのは、この母親である。
おそらく、息子が幼い時から、息子の心に恐怖を与え続け、自分に服従するよう仕向け続けたのだろう。
確かにそれは、どんな母親にもあることではあるのだが、この母親の場合は、それを徹底的にやったのだろう。
それで息子は、無意識のうちに、母親が承認しないようなことは何もできなくなるか、せいぜいが、母親の思考の範囲をほんの少し外れた程度のことを、母親と喧嘩しながら何とか押し通してやるくらいの、狭い狭い人生を送らざるを得なくなったのだ。
息子は結婚もできず、母親は、息子の収入を自分のために使わせることができ、曲りなりにも、80を過ぎて痴呆になっても、家で生活できたのだ。
母親にしてみれば、人生、文句なしである。
しかし、母親もまた、その親や世間に、恐怖を叩き込まれてきたのだ。
誰だって、お金がなくなって、衣食にこと欠き、辛い環境で哀れに生きなければならないことになってしまう恐怖を持っている。
国家というのは、国民にそんな恐怖を叩き込むことで統治するのだからだ。
しかし、この母親は、その上に、家が貧しかったとか、身近でひどく惨めな人がいたのを見たといった経験によって、その恐怖をより強く持っていたのだろう。
母親は、自分の夫は小物なので、自分を一生守ってくれるとは信じていなかった。息子も大したことはないが、若い分、夫よりマシだと踏み、上でも述べたように、息子の心に傷を負わせ続けてでも、自分に対する恐怖を叩き込み、一生、自分に奉仕するように仕向けた。それは、割合に簡単なことだし、全ての母親は、大なり小なりやっていることだ。しかし、この母親は、それを生涯唯一の目的として徹底し、そして、達成した。
だが、過ぎたことはもう良い。
大切なことは、もうこんな悲劇が起こらないよう、この男性の立場にある者が、意識改革することだ。
この男性は、母親に刻み込まれた心の枠によって、精神をひどく制限されていたことに注意して欲しい。
精神的かたわにされていたと言ってよく、ひどく狭い範囲でしか精神を働かせることができなかった。
あらゆる意味で、この男性には自由はなかった。
そして、自由を失った生命体は、生命力が塞き止められて活力が枯渇してしまうのは当然のことだ。
それで、彼は、人生に挑戦する意欲も勇気もなく、父親の小さな家に中年を過ぎても、ずっと大人しく住み続け、母親のために働き、母親のために生きるしかなかった。
誰でも、大なり小なり、この傾向はあるが、特に現代はそれが大きくなっていることを注意したい。
あなたは、こんな男性のようになってはならない。
そのために、親や学校から押し付けられてきた規律や教義、押し付けられた生き方のパターンを全力で疑い、有害と思えば、なんとしてでも、それを頭の中から追い出せ。
だが、なんでもかでも、規律に反発しろと言っているのではない。
ただの反発は、愚かな暴走しか引き起こせない。
学校や親や、あるいは世間に強要された規律や教義をちゃんと見て、不自然なら、堂々と「反抗」するのだ。
だが、そのためには、知恵も必要なのだ。知恵なき反抗は自己中心的なものになり易い。
個人的な願望や欲望のためではなく、他人も含めて、誰もが自由になるために邪魔な、自分や人々の頭に刻み付けられた「馬鹿げた条件付け」を全力で壊すのである。
私がこのブログで書いているのは、その目的を達成できるよう、お互い考えるためのものである。
だが、私があなたの方法を提示することはできない、あなたの方法は、あなたが考えるしかない。
そのために、共に考えようと言っているだけである。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
ある50代の男性は、80代の母親と二人暮らしであったが、母親は痴呆症で介護が必要なため、男性は仕事に行けなかった。
そこで、男性は生活保護の申請をするが、福祉事務局では、「働いてくれ」の一点張りで、生活保護は認められなかった。
しかし、男性は、実際、働くことは無理で、収入がなく、遂にお金が底をつく。
ある日、男性は、母親を車椅子に乗せて、長い時間、できるだけ見晴らしの良い場所を回って、母親に最後の「観光」をさせると、残ったお金で、コンビニの菓子パンを1つ買い、分けて食べた。
そして、母親に、「すまん」と謝ると、母親はボケてはいたが、「そうか、やっぱり駄目か?」と理解し、「死ぬ時は一緒だぞ」と息子に言った。
男性は、母親の首を絞めて殺し、自分も後を追おうとしたが、死に切れず、自首した。
このニュースを見た多くの人は、生活保護を拒否した福祉事務局や、行政のあり方や制度を批判した。
そのためか、その後、生活保護が受けやすくなり、ただでさえ不適切な受給者が多い中で、更に国や地方の財政を圧迫することとなった。
さて、この事件の問題は何であろう?
まず、この男性に、もっと行動力があれば、生活保護は勝ち取れたであろうということだ。
男性に、法的知識があれば更に良かったが、そうでないとしても、いろいろ手を尽くせば何とかなったはずだ。
お金なんて、どんな形にしろ、簡単に手に入るものじゃない。粘りが必要なのは言うまでもない。
とは言っても、男性を責める訳にはいかない。
この男性には、そんなことをする活力がなかったとも思われるからだ。
それは、80も過ぎた母親と心中しようとするところから、はっきり感じられるのである。
まず、言ってしまえば、悪いのは母親である。
息子を、これほど弱い人間にしてしまったのは、この母親である。
おそらく、息子が幼い時から、息子の心に恐怖を与え続け、自分に服従するよう仕向け続けたのだろう。
確かにそれは、どんな母親にもあることではあるのだが、この母親の場合は、それを徹底的にやったのだろう。
それで息子は、無意識のうちに、母親が承認しないようなことは何もできなくなるか、せいぜいが、母親の思考の範囲をほんの少し外れた程度のことを、母親と喧嘩しながら何とか押し通してやるくらいの、狭い狭い人生を送らざるを得なくなったのだ。
息子は結婚もできず、母親は、息子の収入を自分のために使わせることができ、曲りなりにも、80を過ぎて痴呆になっても、家で生活できたのだ。
母親にしてみれば、人生、文句なしである。
しかし、母親もまた、その親や世間に、恐怖を叩き込まれてきたのだ。
誰だって、お金がなくなって、衣食にこと欠き、辛い環境で哀れに生きなければならないことになってしまう恐怖を持っている。
国家というのは、国民にそんな恐怖を叩き込むことで統治するのだからだ。
しかし、この母親は、その上に、家が貧しかったとか、身近でひどく惨めな人がいたのを見たといった経験によって、その恐怖をより強く持っていたのだろう。
母親は、自分の夫は小物なので、自分を一生守ってくれるとは信じていなかった。息子も大したことはないが、若い分、夫よりマシだと踏み、上でも述べたように、息子の心に傷を負わせ続けてでも、自分に対する恐怖を叩き込み、一生、自分に奉仕するように仕向けた。それは、割合に簡単なことだし、全ての母親は、大なり小なりやっていることだ。しかし、この母親は、それを生涯唯一の目的として徹底し、そして、達成した。
だが、過ぎたことはもう良い。
大切なことは、もうこんな悲劇が起こらないよう、この男性の立場にある者が、意識改革することだ。
この男性は、母親に刻み込まれた心の枠によって、精神をひどく制限されていたことに注意して欲しい。
精神的かたわにされていたと言ってよく、ひどく狭い範囲でしか精神を働かせることができなかった。
あらゆる意味で、この男性には自由はなかった。
そして、自由を失った生命体は、生命力が塞き止められて活力が枯渇してしまうのは当然のことだ。
それで、彼は、人生に挑戦する意欲も勇気もなく、父親の小さな家に中年を過ぎても、ずっと大人しく住み続け、母親のために働き、母親のために生きるしかなかった。
誰でも、大なり小なり、この傾向はあるが、特に現代はそれが大きくなっていることを注意したい。
あなたは、こんな男性のようになってはならない。
そのために、親や学校から押し付けられてきた規律や教義、押し付けられた生き方のパターンを全力で疑い、有害と思えば、なんとしてでも、それを頭の中から追い出せ。
だが、なんでもかでも、規律に反発しろと言っているのではない。
ただの反発は、愚かな暴走しか引き起こせない。
学校や親や、あるいは世間に強要された規律や教義をちゃんと見て、不自然なら、堂々と「反抗」するのだ。
だが、そのためには、知恵も必要なのだ。知恵なき反抗は自己中心的なものになり易い。
個人的な願望や欲望のためではなく、他人も含めて、誰もが自由になるために邪魔な、自分や人々の頭に刻み付けられた「馬鹿げた条件付け」を全力で壊すのである。
私がこのブログで書いているのは、その目的を達成できるよう、お互い考えるためのものである。
だが、私があなたの方法を提示することはできない、あなたの方法は、あなたが考えるしかない。
そのために、共に考えようと言っているだけである。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
| 人気ランキング参加中です |
|

私の住む地域、世代では、農家の子は農家、商人の子は商売を。親の跡を継ぐのが当たり前だと教育されました。
時代は代わり、米農業では稼ぎにくくなり、商売も昔のようには儲からなくなりましたが・・。
私も商売の家の子で、当時は食いっぱぐれがないから良いのだ!と言われたものでしたね。
最近は、だいぶ違うようですが、それでも、跡継ぎとか婿取りとか、そういう意識は、まだ根強くあるのかもしれません。
家や田畑、先祖やお墓を思う気持ちは大事なのでしょうが、それに縛られるのはいかにも窮屈です。
「馬鹿げた条件付け」を、ひとつずつ壊していく、壊しても良いのだ、いい年になりましたが、そう思えてよかったです。
自分の子供達には、好きなことをしてくださいと言っています。どういう人生を送るのかは本人次第、運命次第であるのでしょう。