ソクラテスは、自分を唯一の知恵者と言った。
しかし、彼は傲慢ではない。
彼は、他の人々と異なり、「自分は何も知らないということを知っている」ので、自分は知恵者だと言ったのだ。
だが、このソクラテスの真似をして「私は何も知らない」と言うだけで知恵者になるのではない。
世間には、そんな安直な考え方をする者が多い。
ソクラテスは、知恵者と評判の人々を片っ端から訪ね、話し、注意深く観察した結果、「彼らは本当は何も知らないに関わらず、自分が何も知らないことを知らない」ことを発見したのだ。
おそらく、同時に、自分の精神もよく調べ、自分の無知も悟ったのだろう。
そうして、「智者ソクラテス」となったのだ。
我々もまた、世間と自分を本気で観察すれば智者になれる。
では、そんな智者には何が見えるのだろう?
下に良い例を述べよう。
20世紀末に、子供達・・・特に女の子に圧倒的人気だった漫画・アニメ『カードキャプターさくら』という作品があった。
あの作品のファンも、みんな立派な大人になったことだろう。
そして、残念なことに、あの作品の影響を受けているなら、恐ろしい大人、不幸な大人になっていることだろう。
あの作品の第1部では、小学4年生の少女、木之本桜(きのもとさくら)は、散り散りになった52枚のクロウ・カードを集めることになる。カードの実体は魔法の力を持つ精霊で、時には強力な魔力で攻撃してくるので、桜は苦しむが、遂に全てのカードの封印に成功する。
しかし、それで完了ではなかった。桜は、カードの守護者であるユエと戦って勝ち、新しいカードの主(あるじ)にならなければ、「この世の災い」が起こる。
だが、ユエの実力は桜を圧倒し、桜はほとんど何もできないまま敗れる。
そして、「この世の災い」が現実になる。
この世の災いとは、「一番好きな人のことを忘れてしまう」ことだった(「人」と限定されてはいなかったが、作品を見る限り、そう考えて良いと思う)。
桜には、知世という親友がいた。知世は誰よりも桜を愛していたが、桜が自分以外の人を一番好きなことも受け入れていた。この聡明な美少女、知世は、桜のために生きていると言って差し支えないほどだった。
しかし、「この世の災い」が起こった世界では、知世はお昼のお弁当の時、桜とも一緒ではあったが、他の女の子達と仲良く話している。桜に対しても笑顔を見せるが、以前の情熱的愛情の込もったものではない。
知世だけではない。桜の父は、毎朝、食卓に、桜が3歳の時に死んだ、桜の母、撫子(なでしこ)の写真を毎日変えて飾っていたのだが、その写真も消えていた。
学校では、寺田という男性教師を一途に愛していたクラスメイトの利佳は、寺田先生に、ごく普通の教師に対する態度をとっている。
そんな光景を見た桜は、「こんな世界は嫌だ。こんな世界は悲し過ぎる」と思い、「こんな世界、絶対に認めない」と宣言し、力を振り絞った刹那、逆転が訪れた。
桜は、新しい驚くべき力でユエを倒し、カードとユエの主になり、「この世の災い」は回避された。
そして、クロウカードの制作者である、「最高の魔法使い」クロウ・リードの霊が現れ、桜に感謝し、「あなたが全てハッピーエンドにしてくれました」と、桜に微笑む。
私は、当時から、この作品の欺瞞(だますこと)、狡猾さを感じてはいたが、当時は私も頭が世間に汚染されていたので、むしろ、良い作品だと思っていた。
何と言っても、作者CLAMPの絵は圧倒的に可愛いし、きれいだった。
だが、今は、クロウ・リードは、この世を弄び、混乱させて喜ぶ異常者でしかないと思うし、CLAMP自身(4人だが)、子供達を翻弄し、逸脱させる運命だったのかもしれないと思う。CLAMPが悪人だと言いたいのではない。彼女達は運命の道具に過ぎない。しかし、悲しい運命である。
「一番好きという気持ちが消えた世界」
素晴らしい世界である。そうなってこそ、調和のとれた美しい、平和な世界になり、戦争も無くなる。
「この世の災い」が起こった世界でも、知世は、桜が一番ではないとはいえ、やはり好きなのだろうし、桜の父も、死んだ妻、撫子を好きなはずだ。
それで何が悪いのだろう。
いや、絶対的に善いことだ。
知世は桜の、桜の父は撫子の呪縛を解き放ち、精神の制限を解除され、自由な人間になるのだ。
「好き」という気持ちは、「嫌い」という気持ちを誘発し、区別と差別を生じさせる。
それは、「これは好きだが、あれは嫌い」、「この人は好きだが、あの人は嫌い」という、この世に混乱と悲惨をもたらす気持ちだ。
「好き」は「嫌い」の影で、光と影は必ず同時に存在するのである。
まして、特別に好き、一番好きという気持ちがあるなら、「どうしようもなく嫌い」、「どうしても嫌い」も必ずある。それは、憎しみである。
イエス・キリストを誰よりも愛するキリスト教徒の指導者達は、自分達に同調しない人々を、罪が無いに関わらず、どうにもならないほど嫌悪して火あぶりにし、やはり、キリストの名の下に多くの悲惨な戦争が起き、いたるところ、虐殺、暴力があり、恐怖が支配した。これは、仏教、イスラム教などでも同じだ。
また、宗教だけではなく、あらゆる愛好のあるところ嫌悪があり、好きなものにこだわる者達は、必ず、嫌いな相手に残酷なことをしてきたのだ。
学校でも、いじめをするような子供は、必ず、特別に好きな相手がいるのだということに気付かなければならない。
今は、教師もまた、普通にいじめを行う。そんな教師には、必ず、「特別のお気に入り」の子がいるのである。
つまり、現代の教師は、「あの子は特別に好きだ」というのが当たり前になっていて、そのために、「特別に嫌いな子」を作り、何の罪悪感もなく嫌いな子をいじめて自殺に追い込むのだ。
教師とは、特に好きな子はいないが、全部の子供を等しく愛するから教師になるのである。ところが、そんなことが難しいことのように思われているのは、教師に求める資質を完全に誤ってしまっているのだ。間違った人間が教師になっているのである。
教員免許を取る人間が、最も教師に相応しくないのである。
クリシュナムルティは、「教育は完全に失敗した。二度も最悪の戦争を起こしたのだから」と言ったらしいが、全くその通りと私も思う。
「カードキャプターさくら」こそ、この世の災いである。
「好きなもののことを忘れた世界こそ、調和のとれた平和な世界」
その一端を垣間見たければ、1948年のジャック・ウイリアムスンのSF小説『ヒューマノイド』が参考になるかもしれない。
主人公の世界最高の物理学者フォレスターも、理想主義者ホワイトも、そして、読者も、初めは違和感・・・いや、嫌悪感を持つだろう。
しかし、怠惰ではあるが、一切のこだわりを持たないがゆえに、誰にでも限りなく優しく親切な、少し前は雑役夫であった数学者アイアンスミスは、そんな世界を自然に受け入れていた。
著者ウイリアムスンは12歳まで学校に行かなかったがゆえに、優れた想像力を持てたのだろう。
この本は、紙の本は、少なくとも日本では絶版で、古書も高価だ。だが、電子書籍で安く読める。下では、この作品は電子書籍をご紹介しておく。
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しかし、彼は傲慢ではない。
彼は、他の人々と異なり、「自分は何も知らないということを知っている」ので、自分は知恵者だと言ったのだ。
だが、このソクラテスの真似をして「私は何も知らない」と言うだけで知恵者になるのではない。
世間には、そんな安直な考え方をする者が多い。
ソクラテスは、知恵者と評判の人々を片っ端から訪ね、話し、注意深く観察した結果、「彼らは本当は何も知らないに関わらず、自分が何も知らないことを知らない」ことを発見したのだ。
おそらく、同時に、自分の精神もよく調べ、自分の無知も悟ったのだろう。
そうして、「智者ソクラテス」となったのだ。
我々もまた、世間と自分を本気で観察すれば智者になれる。
では、そんな智者には何が見えるのだろう?
下に良い例を述べよう。
20世紀末に、子供達・・・特に女の子に圧倒的人気だった漫画・アニメ『カードキャプターさくら』という作品があった。
あの作品のファンも、みんな立派な大人になったことだろう。
そして、残念なことに、あの作品の影響を受けているなら、恐ろしい大人、不幸な大人になっていることだろう。
あの作品の第1部では、小学4年生の少女、木之本桜(きのもとさくら)は、散り散りになった52枚のクロウ・カードを集めることになる。カードの実体は魔法の力を持つ精霊で、時には強力な魔力で攻撃してくるので、桜は苦しむが、遂に全てのカードの封印に成功する。
しかし、それで完了ではなかった。桜は、カードの守護者であるユエと戦って勝ち、新しいカードの主(あるじ)にならなければ、「この世の災い」が起こる。
だが、ユエの実力は桜を圧倒し、桜はほとんど何もできないまま敗れる。
そして、「この世の災い」が現実になる。
この世の災いとは、「一番好きな人のことを忘れてしまう」ことだった(「人」と限定されてはいなかったが、作品を見る限り、そう考えて良いと思う)。
桜には、知世という親友がいた。知世は誰よりも桜を愛していたが、桜が自分以外の人を一番好きなことも受け入れていた。この聡明な美少女、知世は、桜のために生きていると言って差し支えないほどだった。
しかし、「この世の災い」が起こった世界では、知世はお昼のお弁当の時、桜とも一緒ではあったが、他の女の子達と仲良く話している。桜に対しても笑顔を見せるが、以前の情熱的愛情の込もったものではない。
知世だけではない。桜の父は、毎朝、食卓に、桜が3歳の時に死んだ、桜の母、撫子(なでしこ)の写真を毎日変えて飾っていたのだが、その写真も消えていた。
学校では、寺田という男性教師を一途に愛していたクラスメイトの利佳は、寺田先生に、ごく普通の教師に対する態度をとっている。
そんな光景を見た桜は、「こんな世界は嫌だ。こんな世界は悲し過ぎる」と思い、「こんな世界、絶対に認めない」と宣言し、力を振り絞った刹那、逆転が訪れた。
桜は、新しい驚くべき力でユエを倒し、カードとユエの主になり、「この世の災い」は回避された。
そして、クロウカードの制作者である、「最高の魔法使い」クロウ・リードの霊が現れ、桜に感謝し、「あなたが全てハッピーエンドにしてくれました」と、桜に微笑む。
私は、当時から、この作品の欺瞞(だますこと)、狡猾さを感じてはいたが、当時は私も頭が世間に汚染されていたので、むしろ、良い作品だと思っていた。
何と言っても、作者CLAMPの絵は圧倒的に可愛いし、きれいだった。
だが、今は、クロウ・リードは、この世を弄び、混乱させて喜ぶ異常者でしかないと思うし、CLAMP自身(4人だが)、子供達を翻弄し、逸脱させる運命だったのかもしれないと思う。CLAMPが悪人だと言いたいのではない。彼女達は運命の道具に過ぎない。しかし、悲しい運命である。
「一番好きという気持ちが消えた世界」
素晴らしい世界である。そうなってこそ、調和のとれた美しい、平和な世界になり、戦争も無くなる。
「この世の災い」が起こった世界でも、知世は、桜が一番ではないとはいえ、やはり好きなのだろうし、桜の父も、死んだ妻、撫子を好きなはずだ。
それで何が悪いのだろう。
いや、絶対的に善いことだ。
知世は桜の、桜の父は撫子の呪縛を解き放ち、精神の制限を解除され、自由な人間になるのだ。
「好き」という気持ちは、「嫌い」という気持ちを誘発し、区別と差別を生じさせる。
それは、「これは好きだが、あれは嫌い」、「この人は好きだが、あの人は嫌い」という、この世に混乱と悲惨をもたらす気持ちだ。
「好き」は「嫌い」の影で、光と影は必ず同時に存在するのである。
まして、特別に好き、一番好きという気持ちがあるなら、「どうしようもなく嫌い」、「どうしても嫌い」も必ずある。それは、憎しみである。
イエス・キリストを誰よりも愛するキリスト教徒の指導者達は、自分達に同調しない人々を、罪が無いに関わらず、どうにもならないほど嫌悪して火あぶりにし、やはり、キリストの名の下に多くの悲惨な戦争が起き、いたるところ、虐殺、暴力があり、恐怖が支配した。これは、仏教、イスラム教などでも同じだ。
また、宗教だけではなく、あらゆる愛好のあるところ嫌悪があり、好きなものにこだわる者達は、必ず、嫌いな相手に残酷なことをしてきたのだ。
学校でも、いじめをするような子供は、必ず、特別に好きな相手がいるのだということに気付かなければならない。
今は、教師もまた、普通にいじめを行う。そんな教師には、必ず、「特別のお気に入り」の子がいるのである。
つまり、現代の教師は、「あの子は特別に好きだ」というのが当たり前になっていて、そのために、「特別に嫌いな子」を作り、何の罪悪感もなく嫌いな子をいじめて自殺に追い込むのだ。
教師とは、特に好きな子はいないが、全部の子供を等しく愛するから教師になるのである。ところが、そんなことが難しいことのように思われているのは、教師に求める資質を完全に誤ってしまっているのだ。間違った人間が教師になっているのである。
教員免許を取る人間が、最も教師に相応しくないのである。
クリシュナムルティは、「教育は完全に失敗した。二度も最悪の戦争を起こしたのだから」と言ったらしいが、全くその通りと私も思う。
「カードキャプターさくら」こそ、この世の災いである。
「好きなもののことを忘れた世界こそ、調和のとれた平和な世界」
その一端を垣間見たければ、1948年のジャック・ウイリアムスンのSF小説『ヒューマノイド』が参考になるかもしれない。
主人公の世界最高の物理学者フォレスターも、理想主義者ホワイトも、そして、読者も、初めは違和感・・・いや、嫌悪感を持つだろう。
しかし、怠惰ではあるが、一切のこだわりを持たないがゆえに、誰にでも限りなく優しく親切な、少し前は雑役夫であった数学者アイアンスミスは、そんな世界を自然に受け入れていた。
著者ウイリアムスンは12歳まで学校に行かなかったがゆえに、優れた想像力を持てたのだろう。
この本は、紙の本は、少なくとも日本では絶版で、古書も高価だ。だが、電子書籍で安く読める。下では、この作品は電子書籍をご紹介しておく。
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