ヘレン・ケラーのことは少しはご存知と思う。
幼い時に、病気で視力、聴力を失い、その影響と思うが言葉も話せなかった。
そんな絶望的な状況ではどうすれば良いのかということを、彼女は教えてくれている。
それは、言葉ではなく、行動によってだ。
まずやるべきは、現実的な範囲で、失われた能力を回復させることだ。
ヘレンの場合、発声に関してはある程度克服したが、視力、聴力に関しては回復不能というのが現実で、それを受け入れた。
そして、その後どうするかだが、それは、残された能力を使ってやるべきことをやる・・・それだけである。
彼女は、そのようにして、普通の人よりずっと優れたことをした。
これは、彼女が特別な人間だったからではなく、視力、聴力がない分、普通の人よりも「本来、人間が持っている能力」をより多く使ったというに過ぎない。

私は、羽化した時に羽が損傷していて飛べないアシナガバチを見たことがある。
そのハチはどうしただろう?
「俺は不幸なハチだ」と嘆いて沈み込んでいたのではない。
「神よ助けたまえ!」と言って、ずっとお祈りをしていたのでもない。
歩いて出かけ、仕事をして、歩いて帰ってきた。
悲しんでいる様子でも、辛い様子でもない。
実に自然な様子で、とても生き生きとしているようにすら感じた。
生命力をそのままちゃんと生かしていたからだ。
他のハチも、その「障害者」のハチを蔑んでいる様子はなかった。
なるほど、確かに、他のハチに比べ、劣る部分が多く、天敵にたやすく捕獲されたり、飛べるハチなら無事に切り抜けられることで命を落とすかもしれない。
だが、黙ってやる者には、そんなことはどうでも良いことである。

そして、人間には、ハチにはない精神的な能力が沢山あり、また、社会が多様なので、可能性も多い。
ヘレンの場合は、やはりほぼ無限の可能性があったのであり、彼女は、その中のほんの少しをやったのだが、それでも、極めて偉大な一生だった。
我々もまた、持っている能力、環境のままで、間違いなく、可能性は無限である。
ただ、それを見出し、実践する責任は自分にあるというだけのことだ。

結局、人間にとって、最も悪い不幸な病気は、「文句を言う」ことである。
それは、他人や環境などの外部を批判することで、自分の可能性を閉ざすだけのことである。
ビートたけしさんが、こんなことを言われていたのを思い出す。
「今の若い芸人はだらしないと思うよ。でもね、あいつらがだらしないから、こんなオッサンがやってられるんだ」
あえて蛇足の解説をすれば、若くて、外見が格好良く、体力もあって、記憶力も良い若い者がしっかりしていたら、年寄りの自分なんて出る幕がないが、そうならなくて有り難いという意味だろう。
これはプラス思考でも何でもない。
単に、「文句を言わない」という、ちょっと賢い姿勢と思考に過ぎない。
会社でよく、上司が無能で苦労させられると文句を言う者は多い。
まあ、誰だって、他人に比べ、優秀な部分もあれば、劣っている部分もある。自分の方が有利な部分に着目すれば、確かに相手が自分より劣って見える。
しかし、たとえ天才と凡人を比べたって、さしたる差はない。ましてや、たかが同じ会社の部長とヒラという程度ではドングリの背比べ、五十歩百歩であり、もちろん、どちらかが相手より明らかに優るということは絶対にない。
だが、「相手が無能だから」と言って文句を言うことで、「自分が」圧倒的に無力になるのだ。
人間は、文句を言わなければ言わないほど、真の能力は無限に高くなる。
逆に、文句を言えば言うほど、石ころや道端の犬の糞に近くなる。
これを忘れないことだ。
私は、上司が無能であれば、本当に有り難いと思うのだ。上司が無能だからこそ、無能な私がのうのうと楽をできるのである。上司が有能なら、私程度の者は無用であろう。









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