今朝も書いたことだが、重要なので繰り返すと、我々は耐えることで心を鍛えなければならない。
私は、善い人間や優秀な人間になれと言うつもりはない。
それは私には到底不可能だ。
だが、悪人になっても、心が弱ければ、心の弱い善人のように辛く哀れである。
意気地がなければ、明るく、悠然としていることはできないからだ。
逆に言えば、悪人でも、愚か者でも、心が鍛えられれば、心安らかでいられる。そうすれば、幸福になれる。
そして、心を鍛えることは、さして難しくはないのだ。

泣き言を言わないことだ。
泣き言を言うような者が、この世で思い通りに闊歩できるはずがない。
法然も親鸞も、何もしなくていいから、ただ念仏をしろと言った。
念仏を唱えれば、耐えることができる。
そして、心が強くなるのである。そうなれば、この世の利益はきわ(際。限界という意味)もない。

そして、心を鍛えるには、孤独に耐えることや、食を慎むことが大いに有効である。
確かに、いつでもすぐに群れたがり、食べたい時に、どこでも、そして、好きなだけ食べたがる者に、大したやつは決していない。
別に、それが悪いと言っているのではない。
そんな者のことなど、私には何の関係もないし、誰にも何の関係もない。
ただ、その本人の心が弱いせいで、いつまでも惨めでいなければならないから可哀想だと言っているだけである。

耐えるコツは、まず一秒耐えることだ。
一秒が過ぎたら、次の一秒と、耐えられるだけ耐えるのだ。
すると、すぐに、長い間耐えられるようになり、さらには、常に耐えられるようになる。
すると、もう耐える必要もなくなる。
強い心は揺らがないからで、揺らがない心に災難はやってこれないと決まっているからだ。
そのようになった心は、強力で、驚くべき力を持つ。
それは、台風の中で自由自在に動けるようになった者が、風のない大地で活動するようなものだ。
あまりに楽なので、どんなことも子供の遊びになってしまうのだ。

だが1つ言っておく。
耐えるのは良いことだが、過度な重荷を背負おうとしてはならない。
厳し過ぎる訓練をしてもいけない。
人間は、激しい欲望のために、過酷な訓練や戦いをしたがるものだ。
しかし、それは修羅の道であり、魔道に落ちざるをえない。
受けるべき試練は神が与えてくれるし、神は耐えられないような試練は与えない。
神を信じるのだ。
そして、さっきも述べたように、まず一秒、そして、また一秒と耐えるのだ。
それは容易い。
やってみれば、必ずでき、それで強くなり、その楽な試練に感謝するだろう。
そもそも、試練のない人生ほどつまらない、苦痛なものはないはずだ。
辛い日々も、過ぎてみれば、甘く、楽しい、そして、切ない青春の思い出である。









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