人生は「夢のようなもの」ではない。夢である。
「なぜ?」も何も、これほど、偶然とは思えない「出来過ぎ」のことばかりが起こっているのに、世界とは単に自分の心が紡ぎ出したものでないはずがない。
とはいえ、無理に「世界は夢だ」と思えと言うつもりはない。
ちゃんと納得した上で、そう見なさなければ、動じず、悠然としていることはできない。
夢であることが分かっていれば、どんなに恐い夢であっても、スリルは楽しみつつ、どこか醒めているものだ。
それは、自分が映画の登場人物ででもあるかのようである。
どんな危機的な状況でも、どこか緊迫感に欠けるのである。
しかし、劇の中で、徹底的に恐がらなくてはならないという決まりはない。
むしろ、緊張感を味わいつつ、なりゆきを楽しむのが良い役者だ。
W.B.イェイツ(「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドの詩人・劇作家)も言ったのである。
「主役を演じるほどの役者が泣いたりしないのだ」
悲劇を演じつつ、本当は陽気だと、イェイツは気付いていたのだ。

良き闘いは、少人数で真剣に演じる劇に似ています。
~『燃えよドラゴン』より~

中国の賢者、荘子も、「我々は夢を見ている。かく言う私も間違いなく夢を見ているのだ」と述べた。
インドの聖者ラマナ・マハルシは、「夢は短く、目覚めは長い。その他には両者に何の違いもない」と断言したのだ。
しかし、誰が言ったかというのではなく、自分が、ごく自然で当たり前のこととして、そう言わなければならないのだ。

それには、出来事をよく観察することだ。
科学者のように、冷静に、「今、ここ」に起こることを、ただ観察するのである。それは、本当は、観照(本質を見極めること)と言う方が適切だ。
出来事に心が乱されても、その心は放っておけ。心が揺れるなら、揺らしておくのだ。心はやがて、抜け落ちて消えていく。

世界は、自分の心が創り出したものだ。
真の自己は光であり、意識の中のフィルム(個人的、あるいは、集合的な記憶)に自己の光を当て、純粋な心がレンズのように、世界というスクリーンに像を結ぶのである。
単純に言えば、それが世界の正体だ。
意識がフィルム(記憶)の影響を受けなくなれば、世界は消え、楽園(天国、極楽浄土)という真の世界が現れ、我々もまた、真の姿となる。
時々、ゆっくりと、丁寧に、「神の他に何もない。ただ神だけがある」と想うことだ。
それによって、必要とあらば、いかなる奇跡でも起こせるだろう。









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