夢の中で、驚くほど美しいものを見ることが稀にある。
だが、それを憶えている場合、その美しいものは、マンダラや星、あるい、女神といった形をとっていたのだろうが、それは、目覚めた後で心がとりあえず、そのような形に創り上げたのである。
本当のことを言えば、「何を見たのか全く憶えていないが、最高最上の美であった」というものなのだろう。
昔からよく言う、「絵にも描けない美しさ」、「言葉にできない美しさ」とは、そのことである。
浦島太郎が訪れた竜宮城が、「絵にもかけない美しさ」であったことが童謡に歌われている。
それなのに、その光景を絵にすることが何度もされたのだから(多くは安っぽいものだ)、罪な話ではあるが、まあ、それも仕方がなかったのだろう。
竜宮城とは、心の深奥にある神秘な世界で、精神分析学では、そこは無意識の領域であるから、顕在意識(自我、心)で意識することはできない。
だが、人間はそことつながっているのであり、その領域に入り込むことは可能なのであるが、現代人は、その世界との間に厚い壁を作り、そこから離れてしまっているのだ。
浦島太郎は、亀を可哀想と思って慈悲をかけ、何らかの犠牲を払って亀を助けたのだ(助け方には様々なバリエーションがある)。
それが、心の奥深くの光に満ちた領域に入り込む秘訣である。
グリム童話の『星の銀貨』では、(グリムが創作を加えた部分もあるのだが)貧しいが心優しい少女は、乞われるままに、持っているものを、衣服を下着まで含めて全て差し出してしまった時に、神が少女の心を愛でて、銀貨に象徴される宝を授けるが、話の真意としては浦島太郎も同じである。
つまり、自我にとっての犠牲を払うことが、エリュシオン(楽園)行きの切符と引き換えということになる。
『バガヴァッド・ギーター』では、至高神クリシュナは、クリシュナの世界に入る方法は、「我を愛せよ」「我のみ崇めよ」「我を常に想え」であると言う。
法然や親鸞の教えでは、ただ、阿弥陀如来を信じ、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えよとなる。
これらは、浦島太郎や、星の銀貨の、「絵にもかけない」世界に行く方法とは、一見異なるように見えるが、実は、全く同じことである。
クリシュナのみ想い、愛するとは、自分のことを忘れ、自分を愛さないことだ。
阿弥陀如来を信じ切るには、自分の力を一切頼らず、ただ、阿弥陀如来の力にすがることができなければならないと、法然も親鸞も教えているのである。
自分のことを忘れ、持っている全てをあげてしまった『星の銀貨』の少女は、ただ神のみを見ていたのだ。
自我は、なかなか自分を忘れることはできず、自分を愛さずにはいられず、自分に力があると思うことをやめられない。
だが、そんな自我の想いを犠牲にし、殺してしまえば、竜宮城への門は開かれ、神は輝く宝を降らせる。
しかし、浦島太郎は、せっかくの幸福の中にあって、世間を思い出し、そこに返ろうとした。
ただし、浦島太郎には最後のチャンスが与えられており、世間には、自分が愛しいと想っていたものはもう無いのだと気付き、さっさと竜宮城に戻る道が与えられていた。
ところが、神の配慮も虚しく、太郎は未練がましく玉手箱を開けてしまったので、世間の人間として死んでしまい、永遠の命を得そこなったのである。
我々の心の奥深くには、間違いなく、天国、エデン、極楽浄土とでも言うべきものがある。
それが、シラーの詩による、ベートーヴェンの第九(交響曲第9番)の『歓喜の歌』にあるように、「神の火花」、「楽園の乙女」という表象として現れることがある。
だから、普段、我々の内にある高貴なものに近い、優れた絵や音楽や文章に触れていれば、内なる神と和し(親しくなり)、同時にそれは、穢れたものを消していくことになる。
だが、注意すべきことがある。
超高級車は、本来は制作者の心の深奥にある神の意識が反映したものであるが、虚栄心でもってそれを入手し、乗れば、心は穢れ、神の世界との通路は断たれる。
最高のクラシック音楽を聴いても、それで、「俺は高尚なのだ。愚民とは違うのだ」と傲慢になれば、やはり同じである。
そんな者達の、なんと多いことか!
ベンツやフェラーリに乗っても良いが、それをただ純粋に楽しむことだ。
素晴らしい音楽を、ただ無心に聴き、美しい詩をただ静かに味わうことだ。
そして、それらの音や言葉の中に、心を溶かしきって消してしまうのである。
そうすれば、天の岩戸から天照臣神が出てきたように、あなたの中の貴いものが現れる。そして、決して後ろに戻ってはならない。
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だが、それを憶えている場合、その美しいものは、マンダラや星、あるい、女神といった形をとっていたのだろうが、それは、目覚めた後で心がとりあえず、そのような形に創り上げたのである。
本当のことを言えば、「何を見たのか全く憶えていないが、最高最上の美であった」というものなのだろう。
昔からよく言う、「絵にも描けない美しさ」、「言葉にできない美しさ」とは、そのことである。
浦島太郎が訪れた竜宮城が、「絵にもかけない美しさ」であったことが童謡に歌われている。
それなのに、その光景を絵にすることが何度もされたのだから(多くは安っぽいものだ)、罪な話ではあるが、まあ、それも仕方がなかったのだろう。
竜宮城とは、心の深奥にある神秘な世界で、精神分析学では、そこは無意識の領域であるから、顕在意識(自我、心)で意識することはできない。
だが、人間はそことつながっているのであり、その領域に入り込むことは可能なのであるが、現代人は、その世界との間に厚い壁を作り、そこから離れてしまっているのだ。
浦島太郎は、亀を可哀想と思って慈悲をかけ、何らかの犠牲を払って亀を助けたのだ(助け方には様々なバリエーションがある)。
それが、心の奥深くの光に満ちた領域に入り込む秘訣である。
グリム童話の『星の銀貨』では、(グリムが創作を加えた部分もあるのだが)貧しいが心優しい少女は、乞われるままに、持っているものを、衣服を下着まで含めて全て差し出してしまった時に、神が少女の心を愛でて、銀貨に象徴される宝を授けるが、話の真意としては浦島太郎も同じである。
つまり、自我にとっての犠牲を払うことが、エリュシオン(楽園)行きの切符と引き換えということになる。
『バガヴァッド・ギーター』では、至高神クリシュナは、クリシュナの世界に入る方法は、「我を愛せよ」「我のみ崇めよ」「我を常に想え」であると言う。
法然や親鸞の教えでは、ただ、阿弥陀如来を信じ、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えよとなる。
これらは、浦島太郎や、星の銀貨の、「絵にもかけない」世界に行く方法とは、一見異なるように見えるが、実は、全く同じことである。
クリシュナのみ想い、愛するとは、自分のことを忘れ、自分を愛さないことだ。
阿弥陀如来を信じ切るには、自分の力を一切頼らず、ただ、阿弥陀如来の力にすがることができなければならないと、法然も親鸞も教えているのである。
自分のことを忘れ、持っている全てをあげてしまった『星の銀貨』の少女は、ただ神のみを見ていたのだ。
自我は、なかなか自分を忘れることはできず、自分を愛さずにはいられず、自分に力があると思うことをやめられない。
だが、そんな自我の想いを犠牲にし、殺してしまえば、竜宮城への門は開かれ、神は輝く宝を降らせる。
しかし、浦島太郎は、せっかくの幸福の中にあって、世間を思い出し、そこに返ろうとした。
ただし、浦島太郎には最後のチャンスが与えられており、世間には、自分が愛しいと想っていたものはもう無いのだと気付き、さっさと竜宮城に戻る道が与えられていた。
ところが、神の配慮も虚しく、太郎は未練がましく玉手箱を開けてしまったので、世間の人間として死んでしまい、永遠の命を得そこなったのである。
我々の心の奥深くには、間違いなく、天国、エデン、極楽浄土とでも言うべきものがある。
それが、シラーの詩による、ベートーヴェンの第九(交響曲第9番)の『歓喜の歌』にあるように、「神の火花」、「楽園の乙女」という表象として現れることがある。
だから、普段、我々の内にある高貴なものに近い、優れた絵や音楽や文章に触れていれば、内なる神と和し(親しくなり)、同時にそれは、穢れたものを消していくことになる。
だが、注意すべきことがある。
超高級車は、本来は制作者の心の深奥にある神の意識が反映したものであるが、虚栄心でもってそれを入手し、乗れば、心は穢れ、神の世界との通路は断たれる。
最高のクラシック音楽を聴いても、それで、「俺は高尚なのだ。愚民とは違うのだ」と傲慢になれば、やはり同じである。
そんな者達の、なんと多いことか!
ベンツやフェラーリに乗っても良いが、それをただ純粋に楽しむことだ。
素晴らしい音楽を、ただ無心に聴き、美しい詩をただ静かに味わうことだ。
そして、それらの音や言葉の中に、心を溶かしきって消してしまうのである。
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このようなことを繰り返すのは、闇から抜け出す過程での混沌なのだと思いたいです。
今朝もまた、心に沁みるお話をありがとうございました。