『時をかける少女』は、1934年生まれの作家、筒井康隆さんが1965年頃に書いた短編小説であるが、いまだ映画や漫画になることに、著者本人が驚いているかもしれない。
この作品は今でも当たり前のように出版されているが、「今読んでも違和感がないなあ」と感じるのは、ひょっとしたらかなり年配の人かもしれない。
主人公の芳山和子は中学3年生で、他にも中学生が何人か登場するが、当たり前だが誰もスマートフォンを持っていないし、当然、LINEで連絡を取り合うこともない。SNSなんて概念もない。
当時の人に初音ミクのライブ映像を見せたら、恐るべきロボットだと思うだろう。それを空想したら、ちょっと面白くはある。

しかし、学校の様子はどうだろう?
今は、小学校でもコンピューター室があったりもするのだが、基本的には学校というのは百年以上前から変わっていない。
『時をかける少女』の、初めの1行はこうなのだ。

放課後の校舎は、静かでなにかしらさむざむしい。ときどきどこかの教室のとびらのあけしめされる音がだれもいない廊下にうつろにひびく。

なんとも涼秋を感じさせられるという人も多いと思うが、ここらの様子は今でも同じようなもの・・・あるいは、全く変わらない。
百年前の人が、現代の銀行や空港に来たら、そこがどんな場所なのか理解することができないが、学校だけはすぐに分かるというのは問題だから、学校も変化しないといけないなんて議論が盛んに行われるようになったのもまた、かなり昔のことなのだ。
電子書籍しかないが、『10年後の教室』という本が最近出版されていて、この中で、近未来の進歩した教室と、それに相応しい授業風景、教育内容が意気込みを持って書かれているが、まあ、期待薄といったところかもしれない。

学校だけでなく、会社のオフィスも、いかに変化しているとはいえ、基本的にはそう変わらないような気がする。
「近未来オフィス」に似たような言葉は、おそらく、何十年も前からあるが、昭和30年代の映画の中の「ちょっといい会社」のオフィスの様子を見たら、「俺のとこよりずっといいじゃないか」と思うことも多いかもしれない。いまだ、だらだら何十分も電話をする30代の人も決して少なくはない。そんな人達は、いかにスマートフォンやインターネットを使っていても、旧世代の人間であり、おそらく、現代のITテクノロジを本当には使えていないのである。
「今の人」は電話なんてほとんど使わないし、たとえ使っても、実に簡潔だ。

また、こんな話があった。
60代の女性が、遊びに来ていた小学生の孫に、「テレビのチャンネルを回してみて」と言うと、孫は、その言葉が理解できない。
「チャンネルを回すとはどういう意味なのだろう?」
昔のテレビはリモコンもなく、テレビのところまで行って、電源を入れたり、ボリュームを上げ下げする操作をしなければならなかったが、チャンネルを変えるには、手で回転させるスイッチで行うものが多かったのだ。

こんなことは、10歳の年の差があれば、何かのことで十分に有り得る。
今でもアナログカセットはそのためのデッキもメディアも売っているが、カセットテープを見ても、これは何に使うものか分からない人がいてもおかしくはない。
アメリカの中高生が、音楽CDというものがそろそろ分からなくなったのは10年以上前のことだ。

たった10年の違いで世の中の概念が変わり、明らかなジェネレーションギャップが存在する。
これが数十年なら、大変な違いになり、百年近く経てば、もう別世界だ。
それなら、いかに素晴らしいことが書かれているとはいえ、古典であれば、うかつにそのまま受け取ると、とんでもない誤解をする可能性がある。
新約聖書の福音書を読むと、一見、そう違和感を感じないかもしれない。しかし、それは、読み手が、その内容を勝手に現代的なものや概念に置き換えているからに違いない。
これが、1937年に書かれSF小説『銀河パトロール隊』であれば、まだ、現代との違いに気付くので、可笑しく感じたり、ちょっと間抜けに感じたりするのであるが、聖書や論語やギリシャ神話となると、古過ぎて気付かないことが多いのである。
(もっとも、『銀河パトロール隊』には、現代以上のステルス戦闘機の構想などがあったりして、なかなか面白い)
偉い人には、論語を優れた人生哲学として振りかざす者もいるのだが、実は、孔子が教えた意味は、そんな人が「こうだ」と主張することとは随分違うことも多い・・・いや、実際は「全く違う」のである。
年の差カップルなんてものにしても、年代差が気に障るのは、10歳差くらいの場合で、これが30年違えば、案外に気にならなくなってしまうものらしい。慣れてしまえば、「こんなものだ」と諦めてしまうということもあるが、分からないのでかえって刺激がなくなってしまう・・・まあ、親子みたいなものである。

だから、古典を読む時は、理屈の頭で読めば、自己本位の解釈になってしまい、その真意や貴重なところを得ることができないのだ。
いわゆる、「論語読みの論語知らず」の状態になるが、さっきも述べたが、論語信者の大半はそうであると私は思う。自分勝手な解釈をして悦に入っているというだけだ。
『老子』や『聖書』や『バガヴァッド・ギーター』、『ギリシャ神話』、『古事記』、その他の優れた古典を読む時は、無心で、魂で読まなければ、むしろ、害があるかもしれない。公式な立場の宗教家のほとんどが、仏陀やイエスの教えを全く理解していないというのは確かである。
古い聖典を読んでも、理屈では何も分からないのは当たり前なのだ。
しかし、できるだけ無我になって読めば、行間から霊的な叡智が囁くだろう。

尚、下にご紹介した書籍は、『10年後の教室』は電子書籍だけ。後は、紙の本と電子書籍の両方が存在する。
私は、『時をかける少女』以外は、全て電子書籍で読んでいる。









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