私は、5年以上、1日1食の菜食を続けているが、それに何か意味があるのかというと、別に何もない。
キリスト教の家庭では、食事の前にお祈りをし、我々だって、およそちゃんとした人なら、「いただきます」くらいは言うと思う。
しかし、そういったことに何か意味があるのかというと、やっぱり何もないのだ。
信仰深い人は、毎日、決まった時間にお祈りしたり、祝詞を上げたり、あるいは、呪文を唱えたりとか、神の像に拝礼するかもしれない。
信仰のない人の中には、それを見て、わざわざ笑ったり、馬鹿にする者もいると思う。
そんな信仰のない者は言うかもしれない。
「そんなことやって、何か意味があるのかい?」
ってね。
答えるなら、意味はない。だから、別に真似しろと言うつもりもない。
「嫌なら、やらなきゃいいじゃない」と言うしかない。
実際、そういったことをやることで良いことでもあるかというと、別に何にもないのだから。
私は、このブログで、念仏を唱えることをよくお薦めするが、念仏に意味があるかというと、それもやはりないのだ。
だから、「南無阿弥陀仏」の念仏でも、「南無観世音菩薩」でも、あるいは、「アーメン」でも、その他のお祈りでも、全て同じである。
ただ私は、超少食になったおかげで、食べ物を丁寧に食べるようになった。
それで思うのだ。
3食以上食べても、大食しても、ステーキや焼肉を食べても構わないが、できれば、丁寧に、できるだけ丁寧に、時間をかけてゆっくり食べることをお薦めしたいとね。
念仏を唱えよと言っても、誰も、阿弥陀如来を見た人はいないだろうし、阿弥陀如来が存在することを証明できる者もいない。
私だって、阿弥陀如来が本当にいると信じているかというと、おそらく、ほとんど信じていないだろう。
だからこそ、念仏を唱えるのである。
そうであれば、私には何の意味もない念仏であっても、阿弥陀如来には意味があるのである。
それはどういう意味だろう?
泥棒がいなければ警察はいらない。
同じように、煩悩にまみれた凡夫がいなければ仏はいらない。
実に、泥棒が警察の職を成り立たせ、仕事と生活を保証してあげているのである。
そして、仏を貴く、有り難いものとしているのは、我々凡夫である。
泥棒が警察を生み出したように、私が仏を生ぜしめたのである。
親鸞は、「阿弥陀如来の誓願(迷える凡夫を救うという誓い)は、親鸞一人のためのものだった」と言ったのである。
だから、私は、泥棒をやるなら、真面目にやれと言いたいのである。
昔、学生運動華やかな頃、東大の教授だった竹内均さんは、朝9時に研究室の閉鎖にやってきた学生達に、
「何だ、こんな時間に来て!私は毎日8時に来ている。君達ももっと真面目にやりなさい」
と、実に奇妙な説教をしたらしい。
泥棒だって、真面目にやるから警察の質が上がるのである。
近頃、警察も学校の教師も、呆れるほど怠慢で逸脱したことばかりやるのは、泥棒が真面目にやっていないからであり、子供達も、真剣な導きが必要な悪童を真面目にやらず、隠れてコソコソ弱い者いじめをするような「良い子」だからだ。
泥棒を志すなら、ルパン三世でもしっかり見て、ポリシーを持ってやることだ。
授業が面白くなければ、すっぽかせ。寄席や落語でも、面白くなければ客は帰るのだ。
少なくとも、授業など無視しろ。そうすることで、教師もレベルを上げるのだ。
腕立伏せも、適当に100回も200回もやっていると、身体は歪んで痛んで駄目になる。
芸術的に大真面目に10回だけやれば、この魂を包むために身体は強くなるのである。
念仏も、いい加減に数多く唱えても、仏は現れない。
しかし、丁寧に、真摯に唱えると、阿弥陀如来だけでなく、他の仏も、観世音菩薩も、勢至菩薩も、天の神々、地の神々も現れて、その者を守るのである。
だから、念仏に何の意味もないし、阿弥陀如来の存在など信じていなくていいから、丁寧に、ゆっくりと、真摯に唱えることだ。
もちろん、天照大神に祈っても良いし、イエスを崇めても良い。
それだって、本当に丁寧にやることだ。
ケーキを食べる時も、猫を撫でる時も、女の子にキスする時(あるいはプロポーズする時)も、ゆっくり丁寧にやることだ。
神仏は内にあり、本当の丁寧さの中に発露するからだ。
難しい本も、1日に1ページ、いや、数行進むつもりで読めば、その数行の中に、本全部を見るのである。
本の中に真理があるのではない。それは、我々の中にあるのだからだ。
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キリスト教の家庭では、食事の前にお祈りをし、我々だって、およそちゃんとした人なら、「いただきます」くらいは言うと思う。
しかし、そういったことに何か意味があるのかというと、やっぱり何もないのだ。
信仰深い人は、毎日、決まった時間にお祈りしたり、祝詞を上げたり、あるいは、呪文を唱えたりとか、神の像に拝礼するかもしれない。
信仰のない人の中には、それを見て、わざわざ笑ったり、馬鹿にする者もいると思う。
そんな信仰のない者は言うかもしれない。
「そんなことやって、何か意味があるのかい?」
ってね。
答えるなら、意味はない。だから、別に真似しろと言うつもりもない。
「嫌なら、やらなきゃいいじゃない」と言うしかない。
実際、そういったことをやることで良いことでもあるかというと、別に何にもないのだから。
私は、このブログで、念仏を唱えることをよくお薦めするが、念仏に意味があるかというと、それもやはりないのだ。
だから、「南無阿弥陀仏」の念仏でも、「南無観世音菩薩」でも、あるいは、「アーメン」でも、その他のお祈りでも、全て同じである。
ただ私は、超少食になったおかげで、食べ物を丁寧に食べるようになった。
それで思うのだ。
3食以上食べても、大食しても、ステーキや焼肉を食べても構わないが、できれば、丁寧に、できるだけ丁寧に、時間をかけてゆっくり食べることをお薦めしたいとね。
念仏を唱えよと言っても、誰も、阿弥陀如来を見た人はいないだろうし、阿弥陀如来が存在することを証明できる者もいない。
私だって、阿弥陀如来が本当にいると信じているかというと、おそらく、ほとんど信じていないだろう。
だからこそ、念仏を唱えるのである。
そうであれば、私には何の意味もない念仏であっても、阿弥陀如来には意味があるのである。
それはどういう意味だろう?
泥棒がいなければ警察はいらない。
同じように、煩悩にまみれた凡夫がいなければ仏はいらない。
実に、泥棒が警察の職を成り立たせ、仕事と生活を保証してあげているのである。
そして、仏を貴く、有り難いものとしているのは、我々凡夫である。
泥棒が警察を生み出したように、私が仏を生ぜしめたのである。
親鸞は、「阿弥陀如来の誓願(迷える凡夫を救うという誓い)は、親鸞一人のためのものだった」と言ったのである。
だから、私は、泥棒をやるなら、真面目にやれと言いたいのである。
昔、学生運動華やかな頃、東大の教授だった竹内均さんは、朝9時に研究室の閉鎖にやってきた学生達に、
「何だ、こんな時間に来て!私は毎日8時に来ている。君達ももっと真面目にやりなさい」
と、実に奇妙な説教をしたらしい。
泥棒だって、真面目にやるから警察の質が上がるのである。
近頃、警察も学校の教師も、呆れるほど怠慢で逸脱したことばかりやるのは、泥棒が真面目にやっていないからであり、子供達も、真剣な導きが必要な悪童を真面目にやらず、隠れてコソコソ弱い者いじめをするような「良い子」だからだ。
泥棒を志すなら、ルパン三世でもしっかり見て、ポリシーを持ってやることだ。
授業が面白くなければ、すっぽかせ。寄席や落語でも、面白くなければ客は帰るのだ。
少なくとも、授業など無視しろ。そうすることで、教師もレベルを上げるのだ。
腕立伏せも、適当に100回も200回もやっていると、身体は歪んで痛んで駄目になる。
芸術的に大真面目に10回だけやれば、この魂を包むために身体は強くなるのである。
念仏も、いい加減に数多く唱えても、仏は現れない。
しかし、丁寧に、真摯に唱えると、阿弥陀如来だけでなく、他の仏も、観世音菩薩も、勢至菩薩も、天の神々、地の神々も現れて、その者を守るのである。
だから、念仏に何の意味もないし、阿弥陀如来の存在など信じていなくていいから、丁寧に、ゆっくりと、真摯に唱えることだ。
もちろん、天照大神に祈っても良いし、イエスを崇めても良い。
それだって、本当に丁寧にやることだ。
ケーキを食べる時も、猫を撫でる時も、女の子にキスする時(あるいはプロポーズする時)も、ゆっくり丁寧にやることだ。
神仏は内にあり、本当の丁寧さの中に発露するからだ。
難しい本も、1日に1ページ、いや、数行進むつもりで読めば、その数行の中に、本全部を見るのである。
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前にKayさんが、ゆっくりと丁寧に心に響くように唱える、微かに、と書かれていたことで、私の考え方や感じ方はだいぶ変えさせられました。この同じ感覚を全てに応用できるように掲示頂いたのです。
あれから私は怠惰で尚且つ再び迷いの中にいたのですが、また、今日、大事な掲示を授けられたようです。
つい今しがたまで、せかせかと、慌てて行動、判断していた私がいて、これを読んで気付いた自分とそれはまるで別人のような気がしますが、全く同じ人間であると言う。
これに関しては、だからこそ、合点が行くまでゆっくりと納得させられたい気分であります。完全に合点できてない自分を責めて急ぐことは無いと感じています。これこそ、ゆっくりと丁寧に。真理に近いと根本で感じてるからこそ余計丁寧に味わうのです。