人生は苦しいから良いのである。
そして、苦しくない人生は地球上に1つもない。このことに絶対に例外はない。
どんなに傲慢、横柄に振舞っている者でも、いや、そのような者ほど、本当はより苦しいのだ。
連中は見栄っ張りだから、それを見せまいとしているだけだ。
これはクロノ神にかけて真実である。

人生は苦しいものと諦めなければならない。
しかし、般若心経では、観自在菩薩は、般若波羅蜜多という修行をすることで、苦を克服したらしい。
では、般若波羅蜜多って何なのだ?
多くの人が、それは、このお経の最後の呪文だと言う。
「ギャテイギャテイ・・・」、あるいは、インドの言葉で、「ガテーガテー・・・」っていうやつだ。
どっちでも良い。どっちも効果はないのだから。
そんなもので苦を克服したやつなど見たことはない。
そのような者など、太古の昔から一人もいなかったし、どれだけ先の世の中になっても、一人も現れないだろう。

確かに、無になれば、一切の苦しみは消える。
では、無になるとはどういうことか?
あるインドの聖者は、「私という感覚、私のものという感覚がいっさい無いこと」と言ったという。
嘘である。聖者はそんなことは言わない。
本当は、もっととりとめのない、意味をなさないようなことを言っただけだ。
それを、このように格好の良いことを言ったと書く翻訳者の、聖者に対するリスペクト(尊敬)は認めないでもないが、それで迷惑する人も多いのである。

本当に無になり、苦しみを逃れる方法といえば、おそらくこれしかない。
それは、絶対に善いことをしないぞと誓うことだ。
よくは分からないが、善いことをしたいと思うのは、おそらく見栄、虚栄心だ。
また、悪いことをしたくないと思うのは、心が正しいからではなく、警察に捕まったり、リンチをされると面倒で心地良くないからだ。
たとえ警察に捕まらなくても、恨みを受けるというのは損なことだ。人間は思う以上に執念深い。いつかは恨みを百倍にして返されるものだ。
そんなことが分かる程度にはなったので、できるなら悪いことはしたくないのだ。
しかし、自分の意志とは関わりなく、善いことや悪いことをする時が来る。あなたにも私にも。
もし善いことをしたら、「とんでもねえ、俺はそんなことしちゃいねえ」って言うに限るのだ。
そして、悪いことをしたなら、『バガヴァッド・ギーター』に書いてあった、至高神クルシュナがアルジュナ王子に言った言葉を思い出すのだ。
それは、
「ただ、戦う道具になれ」
ということだ。
私もまた、悪いことをする道具だ。
ナイフや銃自体は道具だ。善いも悪いもない。
私は何もしていない。しかし、人間界では、「道具が悪かった」と言って道具を裁くのだ。
そして、裁判で、「私の人生のモットーは、絶対に善いことをしないことだ」と言ったら、いわゆる裁判官の心証を害い、あるいは、裁判員の反感を買い、「情状酌量の余地なし」となる。
めでたいことだ。
この地獄の世の中では、悪いことが良いことなのである。

だから、アルベール・カミュの傑作短編小説『異邦人』で、ムルソー青年は、死刑の判決が下された時、この上ない平和を感じたのだ。
彼もまた、決して良いことをしようとはしなかったはずだ。
若く美しいマリーが「結婚してくれる?」と問うと、ムルソーは「いいよ」と答える。
だが、喜ぶマリーが、重ねて、「私のこと、愛してる?」と尋ねると、ムルソーは、「分からないけど、多分、愛してない」と言って、マリーを悲しがらせた。
実に素晴らしいではないか?
ムルソーが、犬がいなくなったと喚く迷惑な老人を、わざわざ部屋に入れて相談に乗り、犬を探してやろうと約束したのは親切だからでも何でもない。自然にそうなっただけなのだ。
私もムルソーになろう。それは容易いと思う。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ