「座右の書は?」と聞かれて、「これです」と、一冊をぽんと挙げられる人に憧れを感じると思う。
また、「これとこれがあれば、後はいりません」と言う人にも一目置きたくなるだろう。
だが、そのようになるには、時間と経験が必要だ。
ある時期までは多読が必要である。
若い人が、「私のお薦めの本はこれです」と言う場合、単に、他の本をよく知らないだけのことである。
あまりに早い時期・・・たとえば20歳そこそこまで・・・に、1つのものに集中し過ぎれば、自我の偏った人間になる。そんな人の中には、一見、極めて優秀なように見えるような人もいるが、単に、若いエネルギーが特定のものに注がれて勢いがあるだけのことである。
その意味もあるが、家柄などによって、子供の頃から、1つのものに打ち込まざるをえない者は、よくよく周囲が気をつけてやる必要がある。10代で才能を発揮しても、それは本当の実力ではないし、20代半ば程度までに賞賛を得ることがあっても、それは一時的なものであって、すぐに無くなってしまう。天才子役なんてものは大抵は大成しない。華のある少年少女には、それを食いものにして儲けたがる、ハイエナのような連中が多く、マスコミも一緒になって、せっかくの才能を潰してしまう。小学生で人気者になったら、さっさと引退しなければ、その後の数十年の人生は悲惨だ。

ミルトン・エリクソンという天才的な精神科医は、子供の時、家には本は、聖書と辞書しかなかった。なぜか彼は辞書を選んで、それを繰り返し読んだが、辞書にはほとんどポリシーは無いので、それは彼に純粋に豊かな知識を与え、彼自身、それはとても幸運なことだったと語っている。
宮沢賢治が片山正夫の『化学本論』(1915)を座右の書としていたことはよく知られているが、純粋な科学書もまた、著者の主張は少ないし、また、多くあってはならないのであるが、そのようなものであれば、若いうちから、常に手近に置くのが良いこともある。しかし、他のものも幅広く読む必要があるだろう。

純粋に、何を読んでも面白いからと沢山の本を読む人は、実際の年がいくつでも若いものである。
しかし、知識を誇るために読む者は、気の毒なことに、若い時に、自我の構築に失敗しているのだ。
無論、仕事上の情報を集めるために沢山の文献を読んだり、研究者が毎日論文を取り寄せて読むというのは仕事なのであるから当然であるが、いい年になって啓蒙書の類を多読するなら、自分の人生には問題があったと考えた方が良いかもしれない。
とはいえ、そうであるなら仕方がない。
かくいう私もそうで、特に、最近、スマートフォンとタブレットPCの表示性能が向上したこともあるが、電子書籍の読書にすっかりとりつかれてしまった。多分、実生活での経験が足りず、未熟なのであろう。
ただ、以前より、自己啓発書より物語を楽しむようになったし、それは、子供の頃やごく若い時の情熱を呼び覚ます類のものである。
当面は諦めて多読を続け、究極の一冊でも見つけようと思う。

そして、「私の一冊」が確定し、それをじっくりと読んで身に付いたなら、次の段階として、その書を捨てねばならない。
しかし、それがなかなかできないまま墓場行きになることが多い。
だが、捨てることができれば、その者は永遠に生きる。
もう少し分かり易く言えば、その一冊を捨てられなければ、来世でまたそれを読むために、この世に転生する。
ただ、一冊が確定した場合、たとえそれを捨てられなくても、次の生では、高貴な家に生まれたり、天才になって生まれるものである。

ところで、タブレットPCやスマートフォンでの読書のメリットを少し書いておく。
私は、小説等は5インチスマートフォンで、図を多用した科学書のようなものは7インチタブレットPCで読んでいる。
電子書籍はページをまとめてめくって元に戻るということがやり難い。
紙の本であれば、「この名前は以前出て来たが、よく覚えていない。たしか、あのあたりに書かれていたな」と思って、適当なページを開き、そこから、「もっと先だった」「もう少し後だった」とか見当を付ければ、案外に早く見つかる。
しかし、電子書籍は、基本的に1ページずつ移動するしかないので、それができない。
だが、それをできないと理解し、諦めてしまえば、必要なことは頭に入ってしまうようになる。また、忘れたらなら忘れたで、潜在意識の方でうまく調整してくれるのである。なにしろ、意識では忘れていても、潜在意識は覚えているのだから。
また、紙の本では、縦書きの本の場合、左側の未読のページが減っていき、右側の既読のページが増えていくのが楽しみで、励みになることも多いだろう。
しかし、電子書籍の場合、「32パーセント」などと、読了割合が表示されることがあっても、あまり実感がない。
だが、それは悪いことではないことが分かった。単に読み終わることを目標にする意識がなくなり、読書そのものを楽しみ、熱中するようになる。せかせかと慌てて読むことがなくなり、じっくり読むようになり、深く読むようになるのだ。
電子書籍の読書は目が疲れるというのは、必ずしも当てはまらない。
解像度の高いディスプレイだと文字が綺麗で読みやすいし、背景を黒に、文字を白にすれば、あまり目が疲れない。
また、現在の紙の本は、あまりに文字が小さいので、目が疲れるだけでなく、誤読することも多い。
日本語は良いにしろ悪いにしろ、微妙なところがあり、読み方1つで、正反対の意味になってしまうこともある。
また、これはフロイトも言っていたが、人間というのは、不思議なほど、文字を別の文字と間違えて読んでしまうことがある。すると、書かれている文章が全く違う意味になってしまう。
おかしな例かもしれないが、「愛する人」を「戦する人」と読み間違え、気付かずにそのまま進むなんてことは、実際は非常に多いのである。
文字を十分大きくし、じっくり読んでいれば、そんなことに本当に頻繁に気付くのである。気付くなら、そんな危険は減っているのである。
ある50代の人が、10代の時に読んだ本を取り出し、ある1文字を読み間違えていたせいで、全然違う意味に理解していたことに気付いて愕然としたことがあったという。それはよくあることである。
私は、スマートフォンは、ディスプレイ解像度がフルHD(1920×1080ピクセル)の富士通ARROWS X F-02Eで、ドコモと契約せずに本体のみ購入し、インターネットには、GoogleのNexus7(2013年版)のLTEモデルをモバイルルーター代わりにして接続している。
Nexus7(2013年版)も、1920×1200ピクセル(WUXGA)の解像度で、特に読書に向いている。
ただ、もう少し解像度が低くても十分であると思うが、4インチ程度の大きさでは画面が小さ過ぎるかもしれない。









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