「心を込める」という言葉があるが、これほど分からない言葉もない。
例えば、「心を込めた料理」と言うことがあるが、豪華でも心の込もっていない料理もあれば、ごく質素でも心が込められた料理もあるだろう。
我々は「心の込もったサービス」を求めるが、それは、本来は、単に「品質が高い」とか「上手い」サービスではないはずだ。
心の中では、「この下賎(身分の卑しいこと)の者が!」と思いながら、高品質なサービスをすることだってできるのだが、そんなサービスをされるのは嫌だろう。

「心を込めて挨拶しなさい」だの、「心を込めて掃除しろ」だの言う者は馬鹿に決まっている。
だって、心を込めるなんてものは強制されてできるものじゃないなんてことは「馬鹿でも分かる」ことじゃないか?

「愛しているよ」と女の子に言うと、彼女は「今の、心が込もってない」と文句を言う。
そりゃきみぃ、あんたが、心を込めて「愛してる」って言われるに値しないってだけのことじゃないのかね?

「心を込める」も「気持ちを込める」も同じだろう。
映画『燃えよドラゴン』で、少林寺の拳法の達人リーが、弟子の少年に稽古をつける場面があった。
「蹴ってみろ」
リーが弟子に命じると、弟子はリーに向かってハイキックを繰り出して見せる。
するとリーは、険しい顔で、少年を見下しながら、
「何だ今のは?」
と詰め寄る。
「気持ちを込めるんだ!もう一度!」
とリーに言われた少年は、あきらかに腹を立てた様子で、勢いを増したキックを出す。
するとリーは、より蔑んだ表情でまた弟子に詰め寄る。
「込めろと言ったのは『気持ち』だ。『怒り』じゃない」
そして、弟子に繰り返し、蹴りをやらせるが、その中に良い蹴りがあった。
そこでリーは、少し微笑み、
「どんな感じがした?」
と尋ねると、弟子は、「えーっと・・・」と考える。
すると、リーは少年の頭を手ではたき、
「考えるんじゃない!感じるんだ!」
と戒める。
西洋人から見れば、「東洋の神秘」とか「曖昧で訳の分からない東洋の問答」だ。
いや、今や、我々東洋人にとっても、ほとんど同じである。

どうだろう?
難しいだろう?
こんな難しいことを、いとも簡単なように、「心を込めろ」なんて言うのは、やっぱり馬鹿なことなんだ。

心の込もった行いとは、どんなものだろう?
それを荘子は「無為の為」と言ったのだ。
「行為の無い行為」という意味であるから、言葉の上では明らかに矛盾だ。
そして、「無為の為」なんて言われたって、分かりゃしない。
この「無為の為」を説明する「馬鹿な先生」は多い。
そんな「センセー」は、やれ、存在論だの、量子論だの、心理学だの難しいことを言って、無為を「説明した気になって」自己満足しているが、誰も分からない。
分からないのは、聞いている者が馬鹿だからとでも言いたげだが、言ってる本人が分かっていないだけのことなのだ。

だが、『荘子』を、「心を込めて」読むことは無理としても、「真面目に」読めばだんだん分かってくる。
いや、正しくは、「無心に」読めばだ。
いやいや、この「無心に」こそが、「心を込める」ってことなのだ。
心ってのは、込めちゃうと消えちゃうのだ。いや、消すことが込めることだ。

『列子』にも似た話があるが、中島敦の『名人伝』に、「無為の為」を示す良いものがある。
天下一の弓の名人を目指す男が、修行を積み、いよいよ師と対決したら、全く互角で勝負はつかずに終り、2人は抱き合ってお互いの技量を讃える。しかし、この時、師は不吉なことを言う。
「我らの技など、真の名人に比べれば児戯のごとし」
びっくりした弟子は、すぐに師に言われた真の名人を訪ねる。
天下一を熱望するこの男は、名人の前ですぐさま矢を射て、自慢の腕を披露する。
名人は、「まあ、そこそこはやるようじゃな」と言う。
そこで、名人は、彼を、崖のてっぺんの、ぐらぐらする岩の上で矢を射てみろと言う。
しかし、男はそこに立つと、恐くて、へたり込んでしまう。
そこで、名人が代わってそこに立ったが、名人は弓を持っていない。
しかし、名人が矢を射るふりをしただけで、鳥が空から落ちてきた。
あまりの技量の差を思い知り平伏する男に、名人は言う。
「お前は射の射は知っていても、不射の射は知らぬ」

法然は、念仏をひたすら数多く唱えることを薦めた。法然自身、1日6万回唱えたという。
しかし、弟子の親鸞は、心を込めてただ一度唱えさえすれば良いと言った。
法然は一応、親鸞のような考えを否定し、「私はそんなことは言っておらぬ」と戒めた。
やはり、「心を込めて念仏を唱えること」は難しい。
それなら、空念仏でも数多く唱えれば、その中で心が込もることもあろう。
法然や、そして、親鸞自身、そう考えたのかもしれないのだ。

本当に心を込めるとは、次のようなものだ。
あなたが本当に愛している人が目の前にいたとしよう。
あなたは、「愛している」と言ってはならない。
しかし、相手を見ていたら、自然に、「愛してる」という言葉が出てきたとする。
それが、心の込もった「愛している」だ。
心が込もった行為や言葉とは、自然に出てくる行為や言葉なのだ。
これを無為自然と言う。









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